織部焼に潜む時代精神の考察

「ウス茶ノ時ハ、セト茶碗、ヒツミ候也。ヘウケモノ也」と、『宗湛日記』という博多の豪商・神谷宗湛(1553-1635)の日記は、織部焼が最初に登場する文献になります。

 

織部焼は、辻が花などと同様、舶来品や自由に溢れた桃山期に於けるmode、trend、fad、fashionです。

美濃国で慶長(1596-1615)初年から焼かれ、古田織部(1544-1615)の指導とお好みと言われます。

そして、元屋敷釜などで加藤景延が唐津から導入した連房式登窯で型抜き成型による大量生産がされました。

 

へうげものと言われるように、作風・意匠が特徴的で、形と文様と文様の配置構成は、それまでの常識を覆しました。

これは、「かぶき者」と呼ばれた人達が現れた進取の気性に溢れた桃山時代の時代精神を反映しています。

だが、一世を風靡しましたが、江戸時代になると形や文様が受け入れられなくなり、廃れていきます。

 

織部釉は、銅緑釉で、異国情緒に富む華南三彩の緑釉への憧憬があったのかもしれません。

 

織部焼の分類として、総織部(緑釉)、鳴海織部(緑釉・鉄絵、白土・赤土)、志野織部(登窯の志野)、織部黒(黒釉、沓茶碗)、黒織部(黒釉と窓抜きの鉄絵)、青織部(緑釉・鉄絵・白釉)、赤織部(赤土)、美濃伊賀(伊賀風)、美濃唐津(唐津織部)(唐津風)、があります。

 

形は、形姿で、沓、誰が袖形(烏帽子形)、扇子などがあります。

文様は、意匠性で、市松模様、幾何学模様、懸垂文(暦手)、網目文、間道文、吊し柿、木、柳、花、千鳥などがあります。

北大路魯山人は、「織部の絵はその意匠千変万化して実に立派な意匠である」ということを言っています。

 

編年とは、通常考古学において遺構及び遺物の前後関係や年代を配列すること、又はその配列自体を指します。

例えば、縄文土器は、山内清男(1902-1970)たちによって型式編年が確立されています。

織部焼の編年区分としては、  瀬戸黒→織部黒、鼠志野→黒織部・青織部、黄瀬戸→総織部、という流れがあります。

千変万化な文様の編年区分は難しいかもしれないが、扇子形向付などの型抜きは登窯導入後です。

 

大量生産は、フォードが1914年、ハイランドパーク工場で組み立てに関する大量生産方式の基本形を完成させたものです。

しかし、画一的・大衆的であるため、消費者から飽きられたりして商品寿命が短くなるので、新商品の開発をしなければいけません。

そこで、織部焼の場合、町人たちが自由な作風の食器を望み、それに大量生産と奇抜な形・文様で応えました。

そして、生産の拡張が一巡すると投資は終焉し、減価償却が始まります。

 

今日の織部焼は、炉開きで織部、伊部(いんべ)、瓢(ふくべ)が使われるなど、現在でも織部焼はよく使われます。

 

結論としては、古田織部の指導とお好みと言う織部焼は、進取の気性に富む桃山期の時代精神の下で、従来の技法を加味して誕生しました。

沓・扇子などの形、市松・幾何学模様などの文様は当時の常識を覆して人々の心を魅了し、型抜きと登窯の導入による大量生産はその需要を満たしました。

泰平な江戸時代になると廃れていったが、その斬新さ・奇抜さは今でも新鮮で、現代でも織部焼は生き続けているのです。

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