上田宗箇
上田宗箇(そうこ)は、永禄6年(1563年)に生まれ、慶安3年(1650年)に没しました。
広島を本拠とする上田宗箇流の初代家元になり、小堀遠州と古田織部を結ぶ茶人として評価を高めています。
いわゆる「ウツキシキ」茶の湯を展開しました。
上田宗箇は、丹羽長秀、豊臣秀吉の家臣となり、千利休や古田織部と親交を深めました。
そして、関ヶ原の戦いでは西軍として戦ったために所領を没収され、摂津国にいましたが、蜂須賀家政の元で徳島城表御殿の千秋閣庭園を造営しました。
次ぎに、紀州の浅野幸長の家臣となり、和歌山城西の丸庭園や粉河寺庭園を造営しました。
浅野家が広島に転封になると、これに従い、やがて、茶の湯と作庭の日々を送るようになりました。
また、数々の道具を自ら造りました。
茶杓としては、大阪夏の陣の際に竹藪に隠れていたときに削った「敵隠れ」があります。
茶碗としては、さても愛でたしと称せられたことに銘の由来がある庭焼赤楽茶碗「さても」を造りました。
いずれも荒武者らしい姿を備えた道具となっています。
上田宗箇が造営した広島城内上田家上屋敷の構成を再現したのが、和風堂になります。
「さても」の写しを造って、使ってみたいと思います。
その陶芸の機会を待つことにします。