廃藩後の益田鈍翁の存在意義の考察

「信實の卅六歌仙遂に切賣となる」とは、『東京朝日新聞』の大正8(1919)年12月21日付けの記事です。

再売り立ての佐竹本・三十六歌仙絵巻が高価すぎるために切断して切り売りすることになったのです。

実際の金額としては、総額37万8千円であり、当時の1万円が現在の1億円くらいに相当します。

その結果、益田鈍翁、團琢磨、原富太郎、馬越恭平、藤原銀次郎、住友吉左衛門、野村徳七、高橋箒庵らが、品川御殿山の応挙館で切断・抽選を行い、益田鈍翁は斎宮女御を入手しました。

 

明治維新によって、後援者である大名と上級武士がいなくなったうえに、文明開花で茶の湯などの伝統文化が廃れました。

そのような時勢に、近代数寄者である財界や政界の有力者が茶の湯に興味を持ち、嗜んだことで、茶の湯はその存亡の危機を脱しました。

 

茶席が社交・外交の場として古くから利用されてきました。

しかしながら、その茶席に用いる道具が、近代数寄者の財力や品格を暗に示してしまっていました。

昨今破綻した、砂上の楼閣の如き、ドバイの高級別荘や高級ホテルなどのようなものです。

 

益田孝(鈍翁)、原富太郎(三渓)、根津嘉一郎(青山)、小林一三(逸翁)、五島慶太らが近代数寄者として著名です。

 

益田鈍翁(1848-1938)は、三井物産の創始者で、中外物価新報(中外商業新報の前身)の設立をしました。

それから、表千家不白流三世川上宗順(1838-1908)に就いて茶道を学びました。

そして、大師会・光悦会などの大茶会を催すなど、茶道復興に大きく寄与しました。

 

1881年、記録上、最初の茶会を開きました。

1896年、御殿山碧雲台で第1回大師会開催し、大寄せ茶会を一般化させました。

1907年、鈍翁の号の由来となる鈍太郎という銘の茶碗を購入しました。

 

品川御殿山に、1877年に御殿山の土地を購入し、碧雲台・禅居庵・応挙館・幽月亭・為楽庵・太郎庵などを造営しました。

 

掃雲台は、近代茶人が小田原に集まる契機となりました。

そこに、明治39(1906)年、鈍翁が小田原に造営し、白雲洞・不染庵・対字斎と称する庵を建てました。

 

近代小田原三茶人として、益田鈍翁の他に以下の人物がいます。

 

野崎幻庵(1859-1941)は、中外商業新報(現・日経新聞)に茶会の記事を書き、三越社長にも就任しました。

 

松永耳庵(1875-1971)は、電力王として有名です。

 

鈍翁のお抱え職人・親交のあった職人が何人もいました。

 

池田瓢阿(二代目)(1914-2003)は、籠師で、『骨董巷談』の著者です。

 

大野鈍阿(1885-1951)は、鈍阿焼を焼いた人で、1913年、益田鈍翁の下、御殿山に築窯した後、1917年、上目黒に、1934年、等々力に移窯しました。

『なごみ1985年10月号』に特集が組まれています。

 

渡辺喜三郎(二代目)(1869-1943)(三代目)(1910-1986)は、塗師で、『なごみ2003年2月号』に特集が組まれています。

 

仰木魯堂(1863-1941)は、建築家で、本名、仰木敬一郎と言います。

数寄屋風の建物を手掛けました。

 

結論としては、文明開花で日本の伝統文化が廃れましたが、近代数寄者のお陰で茶の湯などは存亡の危機を脱しました。

財力を背景に大名から近代数寄者に名物道具が移り、社交場として茶席が持て囃されました。

中でも三井物産創設者の益田鈍翁は突出し、品川・御殿山や小田原・掃雲台などを造営して茶会を開きました。

彼は、近代数寄者の中心として活躍し、また、職人の育成にも力を注ぎ、茶の湯復興に大いに貢献しました。

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