茶礼祖 村田珠光

村田珠光は、茶礼祖や侘び茶の開祖と呼ばれた、侘び茶を創始した茶人で、応永30年(1423年)に奈良に生まれ、文亀2年(1502年)に亡くなりました。

 

村田珠光は、11歳で得度して奈良県にある称名寺に入りましたが、やがて、20歳頃に還俗して、京の三条に移り住み、茶の湯に親しみました。
30歳頃に禅僧となり、臨済宗大徳寺派の一休宗純禅師に参禅して、既に茶の法を体得していた一休禅師から禅と茶を伝授され、茶禅一味の境地に至りました。
また、印可の証として一休禅師から圜悟克勤(えんごこくごん)の墨蹟を授けられたと言われています。

 

そして、能阿弥から立花や茶の湯に加えて、唐物の目利きを学び、更には、能阿弥を介して足利義政の知遇を得ました。

 

「古市播磨法師 珠光
此道、第一わろき事は、心のかまんかしやう也。こふ者をはそねみ、初心の者をは見くたす事、一段無勿躰事共也。こふしやにはちかつきて一言をもなけき、又初心の物をはいかにもそたつへき事也。 此道の一大事は、和漢之さかいをまきらかす事、肝要肝要、ようしんあるへき事也。又、当時ひゑかるゝと申して、初心の人躰か、ひせん物しからき物なとをもちて、人もゆるさぬたけくらむ事、言語道断也。かるゝと云事はよき道具をもち、其あちわひをよくしりて、心の下地によりてたけくらみて、後まて、ひへやせてこそ面白くあるへき也。又さはあれ共、一向かなはぬ人躰は、道具にはからかふへからす候也、いか様のてとり風情にても、なけく所肝要にて候。たゝかまんかしやうかわるき事にて候、又は、かまんなくてもならぬ道也、銘道にいわく、心の師とはなれ、心を師とせされ、と古人もいわれし也」

 

これは、「心の文」と言われるもので、珠光が弟子の古市播磨に当てた手紙の冒頭部分になります。

 

和漢のさかひをまぎらかすことが大事と言うように、書院の茶の唐物偏重の風潮に、どう和物を融和的に取り入れていくかということに関心がありました。
従って、珠光の茶の湯は東山文化の域を完全にはまだ出ていないと考えられます。

 

しかし、東山殿正寝十八畳の間を屏風で仕切って、四畳半の茶室のように区切ったり、竹の茶杓を創案したり、台子を真台子から、桐木地の板と白竹の柱からなる竹台子を創案したり、後々の侘び茶の完成への布石を残していると言えます。

 

侘び茶の開祖と呼ばれる村田珠光ですが、改めてその功績に注目したいと思います。

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