玄々斎

玄々斎精中は、裏千家11代家元で、旧来の価値観が一変した明治維新を迎えた際、茶の湯を支えた人です。

 

玄々斎は、三河国奥殿藩4代藩主松平乗友の5 男として文化7年(1810年)に生まれ、文政2 年(1819年)、10 歳で、裏千家10 代認得斎の養子となりました。

 

寺部領主渡辺家の養子となった10代渡辺規綱(又日庵)は玄々斎の兄(次男)に当たり、交流を持ち続けます。

 

それから、文政9 年(1826年)、17 歳の時、認得斎が亡くなり、認得斎の長女・萬地と結婚して婿養子となり、裏千家11 代を継ぎました。
この7年間、次期家元となるべく、子供には厳しい修行を積んでいたのでした。それが後々、功を奏したわけです。

 

天保10年(1839年)の千利休の250年忌に際して利休御祖堂を再興し、12 畳の抛筌斎などを増築しました。
そして、この一大事業を成し遂げました。
また、兜門が、嘉永2 年(1849 年)に完成しています。
この年、八畳の咄々斎の隣となる六畳間に大炉という炉を切ります。
この大炉は、裏千家独自のもので、他にはありません。
更に、安政3 年(1856 年)、「法護普須磨」に「利休居士教諭百首歌」を書きました。

 

久しく絶えていた禁裏献茶を復活させ、慶応1年、孝明天皇に献茶しましたが、濃茶には龍之影という銘の茶が使われ、木地中次に納められました。このときのお菓子は菱花平で、宗家初釜のみに用いられる菱はなびら餅の原型となります。
これを写した「菊泉香合」を楽家11代慶入に25個焼かせました。
次ぎに、慶応2年1月10日、孝明天皇に献茶しました。
拝領した裂地を使って、1月19日、抛筌斎でその披露の茶会を行い、和巾点を再興しました。

 

更に、「雪月花」の茶箱点前を定め、椅子と点茶盤を用いた立礼式を考案しました。

 

茶の湯にとって維新後は厳しい時期でした。
明治10年(1877年)、68歳でなくなりますが、茶の湯の近代化・興隆に尽力した人生でした。

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