幕末の大名茶人・不昧公の考察

「子孫大切に致可き者也」とは、不昧公が嗣子である月潭に『雲州蔵帳』について遺戒したものです。

松平不昧(1751-1818 )は、名を治郷といい、1767年、松江藩7代藩主になりました。
治世の前半は藩政改革を実施して財政を立て直し、後半は茶の湯を専らとしました。
石州流の伊佐幸琢に学び、やがて、石州流不昧派の祖となります。
不昧公好みとして、独自の美意識を追求しました。

『雲州蔵帳』(雲州名物帳)は、不昧公著で、自身の収蔵品である雲州名物の目録になります。
品名、付属品、伝来、入手年次、入手先、値段などが記載されています。
江戸深川の大材木商冬木家の茶道具の入手に関しては、白酔庵芳村観阿、江戸の道具商の伏見屋甚右衛門、大阪の谷松屋権兵衛らの助力がありました。
また、酒井宗雅の酒井家名物を入手しています。

宝物として、円悟禅師墨蹟、漢作油屋肩衝茶入、虚堂禅師墨蹟、古瀬戸鎗の鞘茶入、漢作残月茶入、漢作伊木肩衝、漢作日野肩衝茶入、定家郷小倉色紙、大恵禅師墨蹟、玉潤筆山市晴嵐、
牧渓筆遠帰帆、虚堂禅墨蹟、無準禅師墨蹟があります。

大名物・中興名物という分類を設けました。
大名物として、本能寺文琳、山の井肩衝、円乗坊肩衝、大文字屋文琳、喜左衛門井戸、細川井戸、加賀井戸、長次郎黒楽北野茶碗、油漕天目、粉引本茶碗などがあります。

中興名物として、増鏡、思河、吹上、藻塩、佗助染色、節季、藤浪膳所大江、加賀光悦、長次郎「西条柿」「無一物」、奥田伯庵、長崎堅手、江戸斗々屋、千種伊羅保、小塩井戸、染付面影茶碗などがあります。

名物並、名物上、名物中、名物下という区分も設けました。

『古今名物類聚』は、1797年に完成した不昧公の著作でで、図解の茶道具の解説書、全18巻になります。

『瀬戸陶器濫觴』は、1811年の不昧公の上中下三巻の著作で、和漢の茶入を分類・整理・論述しました。

『贅言』は、1770年の不昧公の著作で、遊芸化した茶の湯を批判しました。

幕末期の幕藩体制の限界のために幕府や諸藩の財政が窮乏する中で、名物茶器が道具商を通じて不昧公の手に入っていきました。
投資の意味合いもあったが、やがて収集に執着していきました。
「名物は天下古今の名物にして、一人一家一世のものにあらずと知るべし」という大義名分を申し立てて、蒐集をおこないました。
今の200 億円くらいの購入費用は、藩と取り交わした小遣いから長期に渡って徐々に捻出しました。

品川・大崎屋敷に1806年に隠居して、邸内に茶室を造り、余生を道具蒐集と茶の湯三昧で過ごしました。
道具を納めた蔵が火事に焼けることを危惧したという逸話もあります。
明治維新後も生前の余韻を残し、近代数寄者に多大な影響を与えました。

結論としては、石州流不昧派の祖の松江藩主・松平不昧は、幕末、藩政改革で財政を再建させ、商人から窮乏する諸藩などの茶道具を購入しました。
その蒐集は大名物・中興名物などに分類され、『雲州蔵帳』に記録されています。
その他にも茶の湯の著作を残したり、不昧公好みのような美意識を有したりして、その生き様や存在感や業績などは、明治維新後の近代数寄者はもとより現代の茶人にも影響を与えています。

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