初代加藤春鼎
先月下旬まで京都国立博物館にて、特別展「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」が開催されていました。
この佐竹本三十六歌仙絵が売りに出されたとき、あまりに高額であるため、益田鈍翁の判断により三十六歌仙と住吉明神図の37枚に分断されました。
そして、大正8年(1919年)12月20日、鈍翁邸である品川・御殿山の応挙館においてくじ引きで譲渡者を決めて、それぞれの所有者の元に散り散りに渡っていきました。
応挙館は、現在、東京国立博物館の敷地内に移築されていますが、かつて大学サークルに籍を置いていたときにOB・OG茶会をここで行ったことを懐かしく思い出します。
さて、このように、鈍翁は経済界のみならず、美術界においてもとても存在感を示していました。
そして、大野鈍阿や池田瓢阿などの職人に、自分の持つ名品を手本として多くの作品を造らせたように、鈍翁は美術界のパトロンとしての役割も果たしていました。
大正12年(1923年)に関東大震災が起きた際、鈍翁は名古屋の三代高松定一の別邸である洗心軒に一年余り避難しましたが、この名古屋の地で多くの茶人や職人と遭遇することになります。
その中の一人に、瀬戸の初代加藤春鼎(明治18年(1885年)-昭和36年(1961年))がおり、鈍翁は、度々、彼の元を訪れて指導し、歌を詠み与えています。
「はけみても なほもおよはしこゝにきて 業をはしめし人をおもへり」
その甲斐があって、昭和18年(1943年)には、商工省から技術保存資格者の認定を受けています。
機会があれば、その作品に触れてみてはいかがでしょうか。