長次郎も使った聚楽土

楽家1代の長次郎が千利休に請われて楽茶碗を焼いた土が、聚楽土と呼ばれる赤土でした。

 

豊臣秀吉が、現在の京都の上京区辺りに造営した実質的な城が聚楽第というもので、堀や石垣で囲まれていました。

天正14年(1586年)に着工され、天正15年(1587年)に完成しました。

 

そして、利休が聚楽第の近くに屋敷を構えるようになる天正14年頃から長次郎の焼いた楽茶碗が、今焼茶碗または聚楽焼茶碗として登場するのです。

聚楽第の造営の際に出た聚楽土が使われたと考えられます。

 

そして、楽家代々に聚楽土は伝えられ、ノンコウ(道入)も使って茶碗を焼いています。

 

現在、聚楽土といえば、聚楽壁という土壁の素材として知られていますが、長次郎の使った聚楽土と元は同じものです。

 

聚楽第のあったところの地下2-3 mの部分には、聚楽土に層があるようです。

しかし、周辺には建物が建ち、採取することは難しくなっています。

そこで、ブレンドして調合した土を土壁に用いているそうです。

 

本物の加茂川石と聚楽土の科学分析がなされ、蛍光X線分析法のデータが京都市産業技術

研究所によって取られています。

従って、調合するときはこのデータを参考にすれば、再現できることになります。

 

長次郎造の楽茶碗で、釉薬の掛かっていない土見せの部分が見る機会が美術館や博物館であれば、凝視してよく観察してみてください。

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