瀬田掃部
利休七哲の1人に数え上げられる瀬田掃部は、天文17年(1548年)頃に生まれ、文禄4年(1595年)に没しました。
名は、正忠と言います。
豊臣秀吉に仕えて近江に領地を与えられました。
天正12年(1584年)頃から茶会記に名前が登場するようになります。
この年の12月に、津田宗及の茶会に古田織部と共に招かれています。
それから、洗い茶巾という点前を考案しました。
水を張った平茶碗に、2つ折にした茶巾を右にして茶筅と茶杓を仕込みます。
そして、適当なときに茶巾を取って茶碗の上で軽く絞り、更に建水の上で固く絞ります。
更に、茶巾を畳んで蓋置の上に置いた後に、茶碗の水を建水にあけます。
これらの一連の動作で、水が滴るのを見せたり、水が滴る音を聞かせたりして、涼を感じてもらうのです。
当時は冷房のない時代ですので、いかに涼しく感じてもらうかという演出がなされたのです。
茶碗に張った水は琵琶湖で、茶杓は瀬田唐橋を見立てているそうです。
大ぶりな櫂先の茶杓は、掃部形と呼ばれています。
豊臣秀次が高野山に追放されて自刃した事件に連座して、瀬田掃部も処刑されました。
それでは、早速、涼しげな点前である洗い茶巾でお茶を点ててみることにしますか。