短編小説『美に憑かれし男・魯山人』

 またもや身に降りかかってきた辛苦に絶句した。幼少から不幸せには慣れているが、辛いものはやはり辛いのである。「高みを行く人間は、大衆には決して理解されない。」と、気丈な北大路魯山人は、自らに言い聞かせるように言った。自分の美意識と美食を具現化する場として心血を注いだ星岡茶寮を中村竹四郎から経営方針の違いを理由に追われることになった。昭和11(1936)年7月の星岡騒動である。どうして、こうも人から排斥されるのであろうか。

「おまえは、うちとはまったく何も関係ない。」と養家で、幼少の魯山人は邪険に扱われていた。明治16(1883)年、京都の上賀茂神社の社家である北大路家の次男として後の魯山人である房次郎は生まれた。しかし、生まれる4か月前に父は自殺し、母は滋賀の農家に房次郎を預けて失踪した。そこで放置状態であったため、生後5か月後、その農家を紹介した巡査の家の戸籍に入ったが、巡査は行方不明になり、その妻も病死してしまった。そのまま巡査の養子になっていた夫婦が房次郎の面倒をみた。ところが、房次郎が4、5歳のときに義理の兄が死んでしまい、義理の姉とその息子と一緒に義姉の実家に戻った。この家で房次郎は、義姉の母から虐待され、先程のような言葉の暴力を受けた。肉親の愛とは全くの無縁であった。2、3か月後、見かねた近所の人の計らいで、上京区東竹屋町油小路に住む木版師であった福田武造の養子となった。ようやく安定した日々を送れるようになったが、少しでも居心地の良さを得るため、尋常小学校に上がると食事の準備の手伝いをするようになった。
「房次郎、上手にできたな。」と武造に料理を褒められた。褒められることに慣れていなかった房次郎は嬉しかった。人間と違って料理は裏切らない。食材や調理に手間を掛ければ掛けるほど、料理はおいしくなる。きちんと答えてくれるのだ。更に、それだけにとどまらず、そのおいしさに答えてくれる人がいるのだ。料理にのめり込んでいくのであった。
 10歳で尋常小学校を卒業すると、烏丸二条の千坂和薬屋に住み込みで丁稚奉公に出た。御池油小路の仕出し料理屋「亀政」に掲げてあった、一筆書きで描かれた亀の絵とひらがなのまさからなる行灯看板に関心を寄せていたが、これを造ったのが後に京都画壇の重鎮となる竹内栖鳳であった。房次郎は和薬屋の使いに出た際に機会があれば見るこの看板に魅了されていた。料理と同じように、芸術や美術は人を魅了するものであることに、房次郎は気付いた。材料や制作に手間を掛ければ掛けるほど、作品はすばらしくなる。更に、そのすばらしさに答えてくれる人がいるのである。丁稚などしていたずらに過ごしている場合ではないと考えるようになっていた。
  明治29(1896)年1月、房次郎は奉公を辞め、画学校への進学は断念したものの、家業の仕事の手伝いをして扁額や篆刻に関わり、作品制作の基礎を体得していくのであった。おりしも、一字書の書道懸賞が流行しており、独学で書を研鑽した房次郎も応募した。日本画の画材を買うための資金を得るためであった。それが次々と当選していき、一字書きの名手として名を馳せ、西洋看板の仕事も受けるようになって多額の収入を得るまでになった。すると、今まで鳴りを潜めていた親戚たちが名乗り出てきた。幼少期には見向きもしなかったにもかかわらず、金を手にした途端に近づいてくるとは現金な者たちである。全く人は信用できるものではないとつくづく思い知らされた。それに引き換え、美は穢れがないと実感した。
 明治36(1903)年、20歳のときに書道修業ために東京に移った。翌年11月、第36回日本美術協会展の書の部に出品した隷書『千字文』が1等賞2席を受賞し、宮内大臣子爵田中光顕のお買い上げとなった。そして、岡本太郎の祖父である岡本可亭の弟子となり、住み込みで版下書きを学ぶことになった。その後、24歳で書道教授の看板を掲げて独立することがかなった。版下書きの依頼が殺到した。

 人間関係のもつれから端を発した3年にわたる朝鮮滞在を経て、大正2(1913)年、食客として有力者の家を次々と渡り、親交を深めていった。また、竹内栖鳳が房次郎の造った款印を多く買うとともに、速水御舟、土田麦僊、村上華岳ら、日本画家とも知己となった。
 翌々年、金沢の細野燕台の食客となったが、食事のときに燕台自身の造った食器が使われ、それに料理が盛り付けられていた。
「この器は自分で造ったものですか。実に料理がひきたっている。」と房次郎が感心した。
「山代温泉の須田菁華のところで焼かせてもらったものだよ。」と燕台は道楽の楽しみを伝えた。
「料理に合った器は、自分で造らないとだめですな。」と房次郎は達観したようであった。
そして、山代温泉を訪れた際、地元の幾軒かの刻字看板を制作するとともに、須田菁華の窯で作陶させてもらった。このとき、作陶を通じて、施釉や絵付けを自分できちんとやれば、意図したものが造形できることがわかった。また、金沢で有名な料亭「山の尾」の太田多吉から加賀料理や懐石料理を教わった。この頃、房次郎が目指すものが明確に一点で見定まってきたのであった。この金沢逗留は、以降の活動にとって実に有益なものとなった。幼少から人間関係では不遇ではあったが、房次郎の才能を理解する人達が彼を更なる高みへといざなってくれた。

 大正6 (1917)年、古美術鑑定所を開き、翌々年5月、中村竹四郎と東京の京橋南鞘町に「大雅堂芸術店」を開業した。美術印刷・出版の先駆けであった便利堂の4代目社長の中村竹四郎も美に憑かれた人物であった。組むべきして組んだ仲であった。やがて、大雅堂美術店と改称して、大正10 (1921)年4月、いよいよ、長年の構想を実現するべく、その2階に会員制の食堂「美食倶楽部」を開いて、房次郎が造った料理を店で扱う骨董の食器に盛り付けて提供した。翌年、北大路魯山人を名乗るようになった。料理の腕を磨いてきた甲斐があって、美食倶楽部は盛況であった。
「食器は料理の着物である。」と、魯山人はつぶやいた。確かに時代を備えた逸品には違いないが、店にある骨董では必ずしも料理に合うとは限らない。魯山人は更に美意識を進めて自分で料理に合う器を造ろうと決心した。そうすれば、料理も器も意のままになる。これができるのは自分しかいないという事実が、魯山人の自尊心を満足させた。早速、須田菁華の窯で大量の食器を焼いた。
 だが、大正12 (1923)年9月1日、関東大震災が起こり、大雅堂美術店が焼けてしまった。それと同時に、有名なライバル料理店も焼けてしまった。美食家の胃袋を真っ先に満たすべく、芝公園内で焼け残った「花の茶屋」を買い取って、営業を再開した。しかし、華族や地位の高い人達がお越しあそばすには貧相であるため、東京赤坂山王台日枝神社境内に荒れ放題になっていた華族会館である星岡茶寮を改修し、大正14 (1925)年3月20日、竹四郎を社長、魯山人を顧問兼料理長として美食倶楽部のサービスを提供した。料理、器、客に加えて建物までもが魯山人の目にかなったものとなり、これ以上のものはないと言っても過言ではないレベルに達した。
 星岡茶寮で用いる器を制作するために北鎌倉に広大な土地を借り、優秀な陶工を招いて登窯を築いた。しばらくして松島小太郎の後任として美濃出身の荒川豊蔵を招いた。この星岡窯の周辺に田舎家を数軒移築して、これまた魯山人好みの一大テーマパークを構築していった。その中の1つである古陶磁器参考館という建物に2000点にも及ぶ古陶磁器を収集して、会員や客に見せるだけではなく、自分の作品の手本とした。若き日の書もそうであったが、本格的に特定の師に就いて技を磨くのが性に合わない。不遇な幼少期であったせいか、人を信用できなくなっている。度重なる結婚と離婚はそれを物語っている。その点、芸術品や料理は、裏切ることがないので安心できる。裏切るとしたら、それは自身に非があるからである。それに、努力も裏切らないことを人生から学んだ。40歳を過ぎて本格的に作陶を志すことになった魯山人は、生涯、20万点もの陶芸作品を生み出すことになる。そして、精力的に自分の作品の展覧会を催した。他方、美濃古窯趾の調査をおこない、豊蔵が牟田洞古窯跡で桃山時代の志野陶片を発見し、可児市久々利大萱が志野誕生の地であることを明らかにした。魯山人にとって実に充実した日々であった。、

 ところが、星岡騒動によって、至福の時空間は奪われてしまった。しかし、幸いにも美を生み出す北鎌倉の窯場と陶工は手元に残った。賛同者から焼き物の注文が来たことで、次第に失意から脱することができた。その後も作陶を続けて展覧会を開いたり、雑誌を出版したりして活動を続けていたが、世相は戦時色を帯びてきており、昭和17 (1942)年、窯を一端閉めることになった。
  昭和20 (1945)年5月の東京空襲で星岡茶寮は焼けてしまった。竹四郎との訴訟は細野燕台の仲介で示談となり、北鎌倉の窯場と蒐集美術品の半分は魯山人のものとなった。

 昭和23(1948)年に鎌倉で生まれた孫を魯山人は泰嗣(ひろし)と命名した。数度の結婚と離婚を繰り返した魯山人には、 明治41 (1908)年生まれの桜一と昭和3(1928)年生まれの和子という子供がいて、自分の元で育てた。自分の幼少期のように転々とする生活だけはさせたくなかった。そして、孫が生まれたのだ。自分の血を分けた子や孫は、他人ではなかった。表立って言明することはなかったが、魯山人は家族のぬくもりを感じることができたことに幸せを感じていた。
 昭和34年(1959)、肝硬変のため横浜医科大学病院で享年76にて死去した。幼少期こそ恵まれなかったが、特に、晩年は美術品と家族に囲まれて充実した人生であった。魯山人のすばらしい作品は後世の人たちを楽しませており、美は裏切らないことを証明し続けている。      (終)

〈後書き〉

 2023年8月13日に開催された、辻仁成さんの地球カレッジ「気まぐれ文章教室・小説編  第二回」の課題として書いたものです。添削などは特になされていません。

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