寛永の三筆

寛永の三筆とは、本阿弥光悦、近衛信尹、松花堂昭乗のことです。

三筆や三蹟以外にも、優れた書家がいるのです。

 

本阿弥光悦は、永禄1年(1558年)に生まれ、寛永14年(1637年)に没しました。

鷹ヶ峰の地に光悦村と呼ばれる芸術村を作り、美的なことを専らにした盛美的生活を送りました。

光悦流という書の流派の祖でもあります。

 

重要文化財である「鶴図下絵和歌巻」、及び、重要文化財である「四季草花下絵和歌巻」、「鹿下絵和歌巻」は、俵屋宗達が絵を描き、光悦が書を書いた、言わば、画賛です。

「立正安国論」、「和漢朗詠集」などの書が知られています。

 

近衛信尹(のぶただ)は、永禄8年(1565年)に生まれ、慶長19年(1614年)に没しました。

左大臣までなりますが、羽柴秀吉と羽柴秀次に関白の座を譲ったことで、公家の間で批判に遭い、文禄元年(1592年)に左大臣を辞しました。

そして、朝鮮出兵の文禄の役のために名護屋に行ったことで、後陽成天皇の怒りを買い、薩摩国坊津に3年間配流されました。

やがて、慶長1 年(1596年)に許されて京へ戻り、慶長6年(1601年)に左大臣、慶長10年(1605年)に関白となりました。

三藐院流という書の流派の祖でもあります。

 

国宝や重要文化財となる書はないようですが、東京国立博物館蔵の和歌屏風、日記である『三藐院記』、手紙など、多くの書を残しています。

 

松花堂昭乗は、天正10年(1582年)に生まれ、寛永16年9月18日(1639年)に没しました。

慶長5年(1600年)に、石清水八幡宮に社僧となり、瀧本坊の阿闍梨実乗の元で修行して、やがて、阿闍梨となりました。

晩年、寛永14年(1637年)に松花堂と言われる草庵茶室を石清水八幡宮のある男山に建てました。

松花堂流という書の流派の祖でもあります。

 

国宝や重要文化財となる書はないようですが、東京国立博物館蔵の「長恨歌」など、多くの書を残しています。

 

松花堂弁当が一番馴染みのある人が多いのではないかと思います。

これは、農家が種入れに使っていた田型の箱を松花堂昭乗が愛用し、後世、大阪にある料亭吉兆の湯木貞一が料理を盛りつけたものです。

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