掬水月在手
夜空に浮かぶ月がとても美しい時季になりました。
掬水月在手(水を掬(きく)すれば月、手に在り)は、この時季によく掛けられるものです。
「掬水月在手」
月明かりは誰にも降り注いでいるものですが、水を手にすくった者にだけ、この水面に月が映るのです。
つまり、仏性は誰のところにもありますが、その仏性を具現化できる者は、そうなるように尽力をした場合に限られるのです。
出典は、唐の干良史という詩人の作った以下の漢詩に依ります。
「春山夜月」干良史
春山勝事多
賞玩夜忘帰
掬水月在手
弄花香満衣
興来無遠近
欲去惜芳菲
南望鳴鐘処
楼台深翠微
(春山勝事多シ
賞玩シテ夜帰ルノヲ忘ル
水ヲ掬スレバ月手ニ在リ
花ヲ弄スレバ香衣ニ満ツ
興キタレバ遠近無シ
去ラント欲シテ芳菲ヲ惜シム
南ノカタ鳴鐘ノ処ヲ望メバ
楼台 翠微ニ深シ)
また、『虚堂録』に、「僧問。有句無句。如藤倚樹。此意如何。師云。掬水月在手。弄花香滿衣。」、とあります。
掬水月在手と弄花香満衣は、対句として親しまれています。
物を通り抜けてしまうニュートリノも、カミオカンデを造らなければ観測できなかったでしょう。
何かしらの行動を起こさないと、結局、物事は達成されないということでしょう。