明治期に女子教育として取り挙げられた茶道
明治維新まで、茶の湯は武家や商人の間で行われていましたが、後ろ盾となる大名や公家が没落しました。
それから、文明開化で日本の古いものが懐疑的な目で見られるようになりました。
その結果、茶の湯も廃れてしまいました。
明治5年(1872年)に開校した京都公立の新英学校女紅場(にょこうば)に裏千家11代玄々斎の長女である猶鹿子(ゆかこ)が茶道教授として指導に当たりました。
更に、明治5年(1872年)に跡見花蹊が東京で開校した私立女学校である跡見女学校において、「点茶」が正式科目に最初から入っていました。
明治21年(1888年)に京都府立高等女学校で随意科として「点茶」が設けられました。
明治24年(1891年)に華族女学校で随意科として茶の湯が設けられました。
このように、全国の女学校で茶儀科が設置され、女子の間に茶の湯が広まっていきました。
その理由は、礼儀作法の教育に役立つというものでした。
戦後、経済成長期、男性はモーレツ社員として暇なく働き、茶の湯を嗜む時間がなかったようです。
一方、女性は専業主婦や工員・事務員などとして、幾分時間に余裕があり、茶の湯に嗜む時間があったようです。
また、当時、茶の湯人口が最高となっていて、女性が多くを占めていたことが窺えます。
しかし、日本も経済状況が変化し、共働きが当たり前になり、非正社員が増加し、1人当たりの仕事量も増えました。
時間とお金が高度成長時代のように余裕があるものではなくなりました。
茶の湯の従事者に関して、現在は新たな局面に入ったのかもしれません。