李朝初期の高麗茶碗尊重の考察
「かうらい茶碗たつ」
『津田宗達茶湯日記』、天文18年(1549)12月12日の記述ですが、これが、高麗茶碗が最初に登場する文献になります。
このとき、津田宗達は45歳で、千利休(1522-1591)は27歳でした。
年代としては李朝初期に区分されるので、竹の節高台などの特徴を備えていたと思われます。
津田宗達(1504-1566)は、堺の豪商天王寺屋の主で、武野紹鴎の弟子であり、そして、津田宗及(? – 1591)の父になります。
高麗物の区分をしてみます。
李朝初期(15C-16C)は、粘土が多いために竹の節高台となっていて、京畿道では高台の周りに見込みがあります。
李朝中期(17C-18C前半) は、磁器成分が増えてきて高台が薄くて高くなってます。
李朝後期(1752-1883)は、金沙里から移された分院里が官窯から民窯に移管されるまで期間になります。
大正李朝は、登り窯に代わり日本から平窯の技術が導入され、焼成の際の変形がない均等なものです。
「和漢のさかいをまぎらかすこと肝要々々」とは、『心の文』の中にあり、村田珠光が、唐物と和物の道具の調和を説くとともに、心の問題を説きました。
草庵茶・侘び茶の始まりで、唐物偏重からの脱却です。
これを機に侘び茶が広まって和物だけではなく、高麗物も使われるようになっていったのだろうと考えられます。
朝鮮出兵として、文禄の役(1592-1593)、及び、慶長の役(1597-1598)がありますが、大名が茶碗や陶工を日本に持ち帰ってきました。
それと同時に、既に日本に入ってきて茶の湯に用いられていた高麗茶碗を探し求めました。
即ち、高麗茶碗としても価値基準がある程度定まっていたと思われます。
「惣テ茶碗ハ唐茶碗スタリ、当世ハ高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼ノ茶碗迄也、形(なり)サヘ能候ヘハ数奇道具也」と、『山上宗二記』にあります。
しかしながら、山上宗二(1544-1590)、朝鮮出兵の時はいませんでした。
時期的に中期だが、伝世品に李朝初期が多いので初期の茶碗を好んで持ち帰ってきたのだろうと推察されます。
李参平(伊万里焼)、沈寿官(薩摩焼)、坂高麗左衛門(萩焼)が日本に来て、開窯しました。
大井戸、喜左右衛門は、天正年間(1573-1591)に喜左右衛門の所有になったことに因んだ銘ですが、朝鮮出兵の前のことです。
御本手は、釜山の和館で焼かれました(1639-1717)。
見本通りのものを注文したものですが、それは李朝初期のものを見本としています。
徳川家などからの注文で、高麗物で李朝初期のものが茶の湯で決定的に重んじられることになりました。
日本へ来た高麗茶碗の変遷を見てみます。
第1期は、 雲鶴狂言袴、三島系(礼賓三島 古三島)、粉引、刷毛目、井戸です。
第2期は、呉器、割高台、堅手、雨漏、玉子手、熊川(第3期に及びます)です。
第3期は、蕎麦、柿の蔕、斗々屋(第4期に及ぶ)、千利休の頃になります。
第4期は、御所丸、金海、彫三島、伊羅保(第5期に及びます)、古田織部の頃で、日本注文の開始です。
第5期は、半使、御本です。
結論としては、朝鮮出兵の頃は李朝初期と中期の端境期ですが、伝世品から推して大名は初期の茶碗を持ち帰ってきたと考えられます。
これは既に茶の湯で李朝初期の茶碗が使われていたことに依ります。
更に李朝初期の茶碗尊重の風潮は、徳川家などが初期の茶碗を見本として注文した御本手で決定的になります。
故に、現行の李朝初期の茶碗尊重の理由は、古いものを尊ぶことに加えて形式を尊ぶことであると言えます。
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