室町期に於ける成立論的な考察

「夫れ、茶湯の起こりは、普光院殿・鹿苑院の御代より、唐物・絵讃等、歴々集まり畢んぬ。其の頃御同朋衆は善阿弥・毎阿弥なり。」『山上宗二記』

 

曹洞宗の道元の制定した茶礼は、『永平清規』によれば、喫茶、行茶、大座茶湯(だいざさとう)です。

 

闘茶は、鎌倉時代から南北朝時代に行われた、茶の本非(栂尾産か否か)を飲み当てる遊興的茶会のことです。

『太平記』では、近江国守護大名佐々木道誉(1296-1373年)、闘茶を好んで行っていました。

また、『喫茶往来』では、室町時代初期、「茶会」という語が初めて登場しますが、闘茶が詳述されています。

 

二階建ての喫茶亭(きっちゃのてい)と呼ばれる建物で行われました。

二階では四方の窓を開けて板敷きの上の正面に屏風を立て、中央が釈迦で両脇が観音や勢至の三幅対の唐絵を掛けました。

掛け物の前の卓(しょく)の上に唐物の三具足(みつぐそく)(花瓶,香炉,燭台)を飾り、部屋の三方の机には点心、菓子、賭物などを載せました。

一階の客殿で酒を三献飲んで索麺(そうめん)で一杯の茶を飲み、山海の珍味と飯と菓子を順次摂った客が白砂の庭を回遊している間に、亭主は準備をして喫茶亭に客を迎えて豹皮の腰掛けに座らせ、亭主は下座の竹製の椅子に座ります。

給仕が茶碗を運び、仏画の前に備えてから、客に抹茶を入れた茶碗を渡し、湯を注いで茶筅で点てました。

飲み終わると茶碗は交換され、次を飲みます。

そして、四種十服を原則として、本非を当てた得点で賭物が貰えました。

 

書院七所飾りは、佐々木導誉が南朝方に攻められて都落ちするときにした茶道具一式の飾り付けです。

 

更に、書院台子飾りは、書院造が浸透によって茶会が書院の間で行われるようになっていました。

能阿弥は、足利義教・義政の同朋衆で、書院七所飾りを参考にして書院台子飾りを制定し、禅宗の茶礼の台子を書院に取り入れました。

 

『君台観左右帳記』は、能阿弥、相阿弥によって著された、室町中期の座敷飾りに関する秘伝書で、中国画家の品等、座敷飾りの方法、唐物器物の説明がなされています。

 

『御飾書』は、相阿弥によって著された、室町中期の座敷飾りに関する秘伝書です。

 

また、金閣寺・銀閣寺は、連歌や茶会などが行われたサロンで、北山文化・東山文化が形成されました。

そして、同朋衆により、茶道・華道・能楽などの現在の日本文化を代表するものが体系化されました。

 

草庵茶に関しては、村田珠光は茶禅一味の境地に達して精神性を持つ侘び茶を創成し、武野紹鴎・千利休に引き継がれました。

 

現代の茶の湯は、 経済や科学や体制などの時代背景の違いで、村田珠光の変革で導入された精神性が薄れてきているのかもしれません。

点前の習得という克己が慢心を生み、謙虚さや思いやりを欠く茶人が大寄せの茶会などで散見されているようです。

 

結論としては、薬として日本に伝わった茶が、禅宗の茶礼で取り入れられたり、民間に普及したりして需要と供給が増加しました。

結果、茶の産地や等級を当てる遊興的な闘茶が佐々木道誉らにより行われましたが、能阿弥が書院台子飾りという書院の茶を定め、更に村田珠光が精神性の高い茶禅一味の侘び茶を生み出しました。

だが、弁証法的に発達してきた茶の湯が、現在、方向性を見失っているような観がなくもないです。

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