直心是道場
茶掛けとしてよく用いられる文言に、直心是道場(じきしんこれどうじょう)があります。
「直心是道場」
純粋な心それ自体が道場である、ということです。
純粋な心とは生まれながらにして持っているものですので、それを汚さないようにすることが大事なのです。
しかしながら、心を汚さずに生きることは難しく、概してよこしまな考えを抱いてしまいます。
ですので、直心で望むことを心掛けなければいけないのではないでしょうか。
『維摩經』に唯摩居士と光厳童子とのやりとりがあります。
「佛告光嚴童子。汝行詣維摩詰問疾。光嚴白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔出毘耶離大城。時維摩詰方入城。我即為作禮而問言。居士從何所來。答我言。吾從道場來。我問道場者何所是。答曰。直心是道場無虚假故。」
(仏、光厳童子に告げて、 汝、行きて維摩詰に詣で疾を問え。 光厳、仏に白して言く、世尊、我れ彼を詣で疾を問う任に堪えず。所以何となれば、憶念するに我れ昔、毘耶離大城を出る。時に維摩詰まさに入城す。我れ即ち作礼を為し問うて言く、居士、何所より来る。 我が言に答え、吾れ道場より来る。 我れ、道場は何所是と問う。答えて曰く、 直心これ道場、虚仮なき故に。)
(釈迦が光厳童子に、維摩詰の見舞いに行くように言うと、光厳は、お釈迦様、私は彼を見舞に行けません、と言った。何故ならば、思い出すに、私がヴァイシャーリー(毘耶離)の城から出ると維摩詰がちょうど城に入るところでした。私が挨拶をして、どこから来たのですか、と問うと、私は道場から来ました、と答えました。私が、その道場はどこにありますか、と問うと、純粋な心が道場です。嘘偽りがありませんので、と答えたからです。)
道場は私たちの心そのものであるということが分かりました。
内なる修行の場で精進することにしましょうか。