短編小説『井上権左衛門・御細工所日記』

 「私のなすべきことは全てなした。」と、既に老境にある井上権左衛門は、自分の夢が実現したことに満足し、これまでの道程を回顧して独りごちた。実に長い道のりであったが、有意義な人生であった。悔いはなかった。
 慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いにより天下が徳川の世に定まると、西軍の大名は取り潰しとなり、大量の浪人が生じた。だが、東軍の大名配下の侍や土豪であっても太平の世では実質的に浪人のようなものであった。戦を生業として戦国時代を生きてきた侍の多くがその本職を失うと共に自己の存在意義という気概も失ってしまった。帰農する者も少なくなかった。それでも、死に場所を求めて、ある者は大坂の陣や島原の乱に馳せ参じたり、ある者はオランダの傭兵として異国の地で戦闘に参加したりした。しかし、時代の構造的な流れには逆らえるものではない。戦のない泰平の世では侍はもはや無用の存在である。同時に、戦に必要であった武具なども不要になってしまった。加賀藩士である井上権左衛門も、そのような時代の転換がもたらす価値観の変化を憂いていた者の一人である。

 加賀藩二代藩主利長公の治世である今は、徳川方についた関ヶ原の戦いからわずか数年しか経っていない。それにもかかわらず、あるとき、権左衛門が金沢城内の武具御土蔵を見回ったとき、実際に使われることなく保管されている武具が経年劣化で痛んでいた。新たにできた加賀藩の普請に多額の費用が充てられて新調される武具は少なく、もとより、修理されることもなく放置されており、無用の長物となっていることを如実に示していた。加賀藩が全国から職人を募っている際に腕を見込まれて藩外から加賀藩のお抱えの職人になってそれほど日が経っていない権左衛門はこの現状に驚いた。武具を造るにも、様々な技術が用いられている。概して、武器にはその時の最先端の技術が使われている。戦闘の際に着用して身を守る甲冑は、弓矢や太刀に対応していたかつての昔具足が、槍や鉄砲のような新しい武器に対応するように発展し、更に西洋甲冑の影響を受け、当世具足という重武装としてその最終段階の様式に到達した。その特徴は、従来の胴丸を鉄板製とした一枚板の簡素で頑強な構造となる板物胴が造られ、二枚、ないしは、四枚の各板が蝶番でつながれ、容易に着脱できた。胴の造りは幾つかの形式があった。そして、防御性を高めるために籠手や脛当てなどの小具足によって全身が覆われた。兜も自己顕示のために様々な意匠のものが造られた。更に、象眼、蒔絵、金銀箔押し、文様の打出しなどで各部の表面が飾られ、装飾性も素晴らしいものであった。こうなれば、単なる武具ではなく、芸術品である。こうした思いを巡らせるだけでも職人心をくすぐる。権左衛門はそれだけの意識を抱かせる技量と自尊心を備えていた。そして、武具御土蔵の中に立っていると、武具が痛んだまま保管されている現状を打破したい欲求が胸奥から湧き上がってきた。
 これだけの数の武具を直すとなるとかなりの人手が必要になる。しかし、それだけの人数がいなかった。呆然とする権左衛門であったが、特に修理の必要な武具を一つ持ち出し、自分の工房に持ち込んで早速直す作業に取りかかった。革細工にかびが生えていたり、紐が切れていたり、鉄がさびていたりしていた。関ヶ原の戦いから数年でこの状態である。戦のない世では今後はますます状況が悪化することは明らかであった。それだけでなく、武具を造る技術も廃れていくであろう。権左衛門は、焦りと不安を感じた。ひたすら修理に没頭していた。不意に、城内を見回っていた利長公が権左衛門の後ろからその作業の様子をずっと見ていたことに気づいた。
「殿の存在に気がつかず、失礼をば致しました。」と、権左衛門は突然のことに恐縮して振り返り、頭を深々と下げた。
「なに、恐縮することはない。作業を続けよ。それにしても、実にいい腕をしている。」と、暫く観察していた利長公は権左衛門の技量を見抜いて、それを褒めた。千利休が長次郎を、それから、益田鈍翁が大野鈍阿を道すがら見出した経緯も、利長公と権左衛門との出会いと同じようなものであったろう。それほどの運命的な出来事なのである。加賀藩のあり方がこのとき、決定したと言っても過言ではない。権左衛門はその言葉に従って、利長公の御前で武具の修復作業を再開するとともに、金沢城内の武具御土蔵にしまわれている武具の現状について詳細に説明した。
「左様であったか。よくぞ申してくれた。」と利長公は答えて、その場を後にした。
 後日、既に上級の職人として藩に召し抱えられていた権左衛門は利長公の御前に呼ばれて直々お目見えした。そこで、細工方を組織化するための御細工所の設置と、その責任者として、配下の御細工人とともに、武具の管理、修理、補充の任務を言い渡された。時代の流れに逆らうことをしても反駁されないだけの藩主という強力な後ろ盾を得た。事を成し遂げられるという思いがこみ上げてきた。確かに百万石の加賀米は近世の貨幣経済の基盤となる。しかし、それだけに頼るのではなく、他藩が殖産興業によって伊万里や瀬戸のような産物で独自に発展しようとしている潮流に従い、武具だけにとどまらず、技術の水平展開によって、加賀藩を陶磁器、織物、漆芸、象眼などの工芸品で立国させるという夢を権左衛門は、このとき抱き始めた。

 利長公は慶長十年(一六〇五)に病のために隠居して、弟の利常公に三代藩主の座を譲った。権左衛門はそれまで形だけの立場であったが、正式に御細工所の御細工所奉行を任された。後継者を育てることが文化事業を継続させるのに必要であった。武士から御細工人になった場合は、基本的に世襲相続は認められた。試験を受ければ町人でも御細工人になれるように門戸を広げた。町方職人から御細工人になった場合は、御歩(おかち)の士と同格で苗字帯刀が許されたが、世襲は許されなかった。いずれにせよ、勤怠や技術に問題がある場合は速やかに退職となるという仕組みにした。これにより、一定以上の技術水準が維持され、更に、互いに切磋琢磨できる環境を作ることができた。厳しいようではあるが、本物を創り出すには実力主義は効率的なやり方である。新陳代謝のない組織は腐っていくものである。実際、選別されて採用された若い御細工人は、技術の吸収も早く、権左衛門は彼らを頼もしく思った。かつて利長公が権左衛門の作業を見ていたように、「実にいい腕をしている。」と権左衛門は若い御細工人達の作業を見つめて思わず言葉が出てしまった。
 利常公は文化人で、茶人の金森宗和や小堀遠州とも親交があり、裏千家流の四世仙叟宗室が出仕して加賀藩の茶堂茶具奉行(茶堂頭)となった。俵屋宗達、狩野探幽、本阿弥光悦と交流してその作品を好み、隠居後の寛永一七年(一六四〇)にオランダのデルフト焼を日本で初めて買ったのが利常公であった。このように美術工芸品や文化に理解を示していた藩主と権左衛門の波長はとても合っていた。しばしば、利常公と権左衛門は美術談義をともに楽しんだ。その場所は、殿の御所であったり、御細工所の工房であったりしたが、必ずと言っていいほど、そこには一級の美術品や工芸品があった。
 この頃になると、武断政治から文治政治となり、儀礼などに用いるため、武具も装飾的なものが造られるようになった。そのため、京都から御用職人として多くの職人が招聘され、自ら製作に関わったり、御細工人の指導に当たったりしていた。白銀(しろがね)師の上後藤家・下後藤家、蒔絵師の五十嵐氏、甲冑師の春田家、陶工の大樋家、釜師の宮崎家などである。職人には、御用職人、御細工人、町方の職人がいたが、御用職人の師弟から御細工人に召し出される者もあり、その技術を御細工所の御細工人が吸収して次世代に引き継いでいったのである。御細工人も実用的なものだけではなく、装飾的なものも造り出すことが求められていた。つまり、修理だけではなく、献上品や藩主愛用品や藩御用品の作製という業務もするようになっていた。御細工所は、もはや加賀藩になくてはならない存在になっていた。
 寛永十六年(一六三九)に長男の光高公は家督を譲られ、四代藩主となった。三十年以上に渡る利常公との蜜月はそう簡単には切れるものではなく、権左衛門は隠居所に幾度も通った。光高公の死去に伴い、正保二年(一六四五)に五代藩主綱紀公が家督を継いだ。この綱紀公も美術工芸品や文化に関心を持っていた。当然のことながら、権左衛門と気が合った。
 正保三年(一六四六)に井上権左衛門はこの世を去った。その最期の思いは冒頭で記した通りである。その死後、御細工所は大きく組織改編された。御細工所奉行は、それまで権左衛門が製作や修復の実務と御細工人の管理の兼業をしていたのが専門の管理職という位置づけとなり、その配下に、実務と管理を兼任する小頭を置き、御細工人を実務に当たらせる組織体系にした。既に権左衛門がいなくとも、組織が回っていき、工芸立国として加賀藩は江戸幕府にも勝る技術と人材と組織を構築していた。その後の歴代藩主も、御細工所の運営に積極的で、技術が劣化することはなかった。幕末が近い文政十一年(一八二八)には御細工人の職種は、紙細工、針細工、漆細工、具足細工、絵細工、象眼細工、竹細工、小刀細工、大工細工、硎物細工、薫物細工、春田細工、蒔絵細工、ゆがけ細工、茜染細工、金具細工、城端蒔絵細工、縫掛革細工、刀鍛冶細工、轡細工、鉄炮金具細工、鞍打細工、擣紙(とうし)、鉄炮方御用の二十四種に及ぶまでになった。
 御細工所は明治元年(一八六七)に廃止となったが、その精神は、現在でも金沢という伝統工芸の街で息づいている。井上権左衛門の夢は生き続けているのである。              (終)

〈後書き〉

 8月31日に開催された、地球カレッジ「辻仁成の気まぐれ文章教室 第一回、小説編」の課題として書いたものです。

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