茶室における茶の湯代数幾何学、及び、非認知的事象の混成的存在性の考察
キーフレーズ「茶の湯の思想は茶室の思想的背景をなし茶の湯の制約は茶室を建築的に直接規定するのである。此意味で茶室を考察するには先づ茶の湯の思想と其性質を考察する事から初めなければならない。」(『建築様式論叢』、堀口捨己)
茶の湯には、陰陽五行説や禅などの理論や思想が背景に存在しています。
その実践の場である茶室に、思想的背景が建築的に、空間的に影響を与えていると考えられます。
それだけではなく、ヒトの認識できない何物かもそこに潜んでいるかもしれません。
東求堂同仁斎に起源を持つ本勝手四畳半の茶室を題材にして、まず、幾何的な考察をすることにします。
まず、アラベスク(アラビア模様)は、似たような図柄が規則的に連なっています。
他方、和柄でも、麻の葉、亀甲、鮫小紋というような規則的な模様が知られています。
このような幾何学的な模様は、有機物や無機物の結晶性を現す群論において、対称群で説明される並進、鏡映、回転という操作によって平面上に織りなされています。
そして、平面図として書き表われる茶室は、幾何学模様と同様に、並進、鏡映、回転という操作を施すことが製図上、可能です。
つまり、茶室の写しや移築とは、遠隔的な並進操作を施したものであると考えることができます。
更に、本勝手四畳半(I)と逆勝手四畳半(II)は、xyzで決定される3次元ユークリッド空間においてエナンチオメリックな対掌性を有し、互いに鏡映対称となっています。
実際、下図のように、床のある北をx軸の正とし、茶室の中心をOとする畳の面をxy平面として、中心Oから上向きz軸を持つ座標軸を定めた場合、IとIIはzx平面に対して鏡映となっています。
このように、鏡映操作や回転操作を加えると、四畳半茶室には、図のように、本勝手四畳半(I)と逆勝手四畳半(II)に加えて8つの像が存在します。
この際、鏡映操作や回転操作においてz座標は不変であるので、1つ次元を落としてxyz3次元ユークリッド空間からxy2次元ユークリッド平面上での考察としても数学的に同型です。
まず、線型変換に関して考察します。
これら一連の四畳半の茶室は、xy平面上において任意の点(x, y)に対して、x軸対称、y軸対称、直線y=x対称、直線y=-x対称の操作を施すことが可能です。
この操作は、線型変換として2×2の表現行列で行うことでできます。
x軸対称を行う行列をA、y軸対称を行う行列をB、直線y=x対称を行う行列をC、直線y=-x対称の操作を行う行列をDと定めると以下のようになります。
x軸対称、y軸対称、直線y=x対称、直線y=-x対称の操作のいずれかを像I に4回連続して元の像Iに戻る場合の結果を試行してみます。
(i)軸対称のみの操作を行う場合、行列AまたはBを座標に掛けることになります。
(ii)直線対称のみの操作を行う場合、行列CまたはDを座標に掛けることになります。
しかしながら、興味深いことに、軸対称のみの操作(i)、ないしは、直線対称のみの操作(ii)によって、像IIIと像VIIは現れませんでした。
(iii)軸対称と直線対称が交互となる操作を行う場合、行列AまたはB、および、行列CまたはDを交互に座標に掛けることになります。
(iii-1) 像I に行列Aを最初に掛ける場合、
ここで、漸く像IIIと像VIIが現れました。
(iii-2) 像I に行列Bを最初に掛ける場合、
以上より、操作(i)、(ii)、(iii)を行うことで、像I-VIIIの8つの像が網羅されました。
その結果、いずれの写像においても上座床であることが分かりました。
「気」の場のエネルギーの分布の仕方、つまり、高低の広がり方は、像I-VIIIのいずれでも同じであって、線型変換しても変わらずに保存されることになります。
しかしながら、実際の茶室には別の原理も影響を与えます。
天子は南面す、と言うように、動かざる北極星のある北側を背にして天帝は南を向いて座ります。
また、上段の間に主君が座り、下段の間に家臣が座るという武家社会の習いが転じて、床の間が上段の間として、その手前が上座として扱われました。
つまり、床前の貴人畳が北側にあることが理想的であることになります。
それ以外にも、光の変化があまりない北側に床を設けることで、道具の姿に一定で変化がないという説もあります。
故に、床は北側があるべきであるという必要条件が成り立ちます。
従って、線型変換A、B、C、Dによって四畳半の茶室が移された像であるという十分条件に対して、必要十分となるのは、像IとIIの2つとなり、それ以外は、四畳半の茶室の間取りである像III-VIIIの6つは棄却されます。
しかし、建物の都合という別の制約で、床が北側だけでなく、それ以外の場合も考えられます。
さて、群に関して考察することにします。
像I に4回連続して元の像Iに戻る場合には、像が自身となる単位行列Eを4回掛けるものもあります。
操作(i)-(iii)の線型操作に現れた行列全てから構成されるグループをGとすれば、
G = {E, A, B, C, D, BA, AB, DC, CD, CA, AC, DA, AD, BC, CB, BD, DB, ABA, BAB, CDC, DCD, CAC, DAC, BCA, ACA, CAD, DAD, ADA, BDA, CBC, DBC, ACB, BCB, DBD, CBD, BDB, ADB, BABA, ABAB, DCDC, CDCD, CBCA, DACA, DBDA, CADA, ACBC, ACAD, ADBD, ADAC, CACB, DBCB, DADB, CBDB, BCAC, BDAD, BDAD, BDBC, EEEE}
となります。
虚数行列をJとすると、
となり、i2 = -1と同型になります。
2つ行列の積は、以下のようになります。
すなわち、CAC = -Aというように、行列の積を代入することで、G = {E, A, -A, C, -C, J, -J}まで簡略化されます。
Gは群をなしています。
G×GがGへの写像となり、結合法則としてa×(b×c) = (a×b)×cが成り立ち、単位元としてE、逆元として逆行列が各元に存在しているため、群の定義を満たしています。
結晶のような美しい対称性をもって、四畳半の写像も群をなすことが分かりました。
次に、2つの異なる平面上の同型に関して考察します。
xy2次元ユークリッド平面上の任意の点(x, y)は、実軸と虚軸の2次元ガウス平面(複素平面)上の点z = x+iyと同一な点として現すことができ、数学的に同型で単に表現が異なるだけです。
但し、zはxyz3次元ユークリッド空間のzとは異なり、複素数を表すzを慣用的にここでも用いています。
xy2次元ユークリッド平面上の任意の点(x, y)を極座標で表記すると(rcosθ, rsinθ)となるように、ガウス平面上の点z = x+iyを極形式で表記するとz = r(cosθ+isinθ) = reiθとなります。
ユークリッド平面上のx軸対称の操作を行う行列A、ユークリッド平面上のy軸対称の操作を行う行列B、ユークリッド平面上の直線y=x対称の操作を行う行列C、ユークリッド平面上の直線y=-x対称の操作を行う行列Dに対して、行列Aはガウス平面上の実軸対称の操作を行い、行列Bはガウス平面上の虚軸対称の操作を行い、行列Cはガウス平面上の直線(1+i)z+(1-i)ž = 0対称の操作を行い、行列Cはガウス平面上の直線(1-i)z+(1+i)ž = 0対称の操作を行います。
このとき、žはzの複素共役でž = x-iyのことです。
このように、2次元ガウス平面上の点であっても、ユークリッド平面上の点と同様に、行列による線型変換が可能です。
そして、ガウス平面上で複素数を掛けることは、回転させることと同じ操作となっています。
虚数単位iを掛けることは、行列J、すなわち、π/2回転行列を掛けることと同じで、反時計回りに90°回転されます。
こうしてみると、像I-VIIIは、実のところ、実像I(Re)-VIII(Re)の8つ、および、虚像I(Im)-VIII(Im)の8つの計16個存在していることになります。
光の明暗とは違う要素に基づいて、平面空間にも陰と陽があったのです。
実像I(Re)-VIII(Re)は、ヒトの五感で認識することができるのに対して、虚像I(Im)-VIII(Im)はヒトの五感では認識することができません。
床が北側にあるという制約から四畳半茶室の実像はI(Re)とII(Re)の2つが存在し、四畳半茶室は建築であるため、それらは固定化された像であり、一度構築された以降は改築しない限り、変型変換によって別の像になりません。
それに対して、虚像I(Im)-VIII(Im)は、ヒトが捉えることができない挙動をすると考えられます。
本勝手I(Im)と逆勝手II(Im)、本勝手III(Im)と逆勝手VIII(Im)、本勝手VII(Im)と逆勝手IV(Im)、本勝手V(Im)と逆勝手VI(Im)はそれぞれ互いに複素共役の関係であることは興味深いです。
ヒトの五感は万能ではなく、現に存在している多くのことを認識できずにいます。
第一に、視覚は、光子が網膜に衝突することで検知された刺激が視神経を通じて電気的なシグナルとして脳に伝えられて物体の像や景色として統合される感覚です。
可視光は肉眼でも検知できますが、可視光よりも波長の短い紫外線、および、可視光よりも波長の長い赤外線は検知することはできません。
第二に、聴覚は、周波数の音波が空気の振動として鼓膜に作用し、その刺激が内耳神経を通じて電気的なシグナルとして脳に伝えられて音として再編成される感覚です。
しかし、ヒトが耳で聞き取れる音の波長の領域は限られています。
コウモリのように超音波を発してその跳ね返りを検知して物の位置を決定することはできません。
第三に、嗅覚は、鼻腔内に存在する嗅神経の受容体に、臭いの化合物が結合して生じる電気的なシグナルが嗅球に集められて、更にシナプス間隙を経て別の神経によって電気的なシグナルとして脳に伝えられて臭いを感じる感覚です。
特定の化合物に対応する受容体が緩やかに決まっており、それ以外の化合物では受容体がきちんと活性化されません。
そして、臭いの化合物が鼻腔に入り込んで受容体と結合しなければ、感じるべき臭いも検知されません。
第四に、触覚は、圧力・振動・温度を感じることができるセンサーを備えた皮膚と機械的な接触をした際に生じた電気的なシグナルが脳に伝えられることで、刺激を感じる感覚です。
第五に、味覚は、舌にある味蕾に味を感じさせる化合物が結合することで生じた電気的なシグナルが脳に伝えられることで、甘味、うま味、苦味、酸味、塩味という味を感じることができる感覚です。
ところが、辛味は味蕾で感じることができません。
このように、五感で認識できないものがあることが理解されます。
更に、茶室からは月や星が窓から見えますが、光の速度であっても、太陽の光が反射された月明かりが地球に届くのに1.3秒掛かり、星はもっと遠くにあって数百年、数百年掛かります。
つまり、タイムラグがあり、光が届いた現時点とは、別の姿を見ていることになります。
それから、陰陽五行説に則って、茶事では初座は陰で暗く、後座は陽で明るくします。
暗い茶室では光子の量が少ないため、物を見る精度が落ちてしまいます。
行列A、B、C、Dによる線型変換を考察した際、xyzの3次元ユークリッド空間からxyの2次元ユークリッド平面に次元を落としても支障はありませんでした。
z軸は本来、存在しているはずですが、認識されていないことになります。
基本粒子を小さなひもとしている最先端の物理理論である超ひも理論では次元は10個存在するとされています。
空間xyzと時間tの4次元として認識される茶室では、把握しきれていない事象が存在しているのです。
また、自転する地球の北半球にある茶室内では、北から南に移動する際には西向きのコリオリの力が、南から北に移動する際には東向きのコリオリの力が作用しますが、ヒトはこの力を感じていません。
ヒトの認識力はそれほど高いものではないと言えます。
サルトルの実存主義では、実存は本質に先立つ、と言われるように、人は予め定まった本質によって支配されるのでなく、自分自身を主体的に律していく実存的存在であるとされています。
とはいうものの、五感で本質の一面をとらえることができないことがあるという事実に対して、ヒトが主体的に正しく物事を判断できずに、結果として認識できない本質に支配されることのあることが示唆されます。
事実、レヴィ=ストロースの構造主義では、社会には通念や因習のように見えない構造があり、ヒトはそれに抗うことなく受け入れて行動していることを指摘しています。
そして、目でとらえることができない紫外線や赤外線もヒトは感知しているのです。
活性型ビタミンDの光化学反応による生成やメラニン色素の形成が紫外線で誘起されたり、細胞内のDNAが損傷したりします。
また、熱として赤外線を皮膚で感じています。
CDでは不要なデータとしてカットされた音は、レコードでは重低音のサウンドとして体で感じられます。
従って、必ずしも目で見えないもの、耳で聞き取れないものであっても認識することは可能です。
辛味は、味蕾で感じるのではなく、痛みを感じるセンサーによって検知されています。
そして、五感から得た刺激は、ヒトの脳で情報として再構成されますが、錯覚のようにバイアスによって恣意的に解釈されることもあります。
このように五感で認知できないものに対して、いわゆる六感の力を借りることも必要になり、そして、肉眼のみならず、心眼でも事象をとらえることになると考えられます。
茶の湯は、悟りの境地に達することを目指す禅と深く結びついていますが、茶禅一味の実態を示唆しています。
複素平面は、数学的にはユークリッド平面と同型で、表現方法が異なっているだけで、本質的には違いはありません。
ただ、ヒトが実体として認識できるか否かが問題となりますが、五感以外の何かしらの力によってその実体の存在を感じ取っているのかもしれません。
それは稽古によって体得できるものとも思われます。
虚数iは、現実の事象でも垣間見られます。
周波数や振動には、eiθが使われますが、それは複素平面にすると式の扱いが容易になるからという理由があり、実数でも物理現象は説明されます。
また、フーリエ変換でも虚数が使われています。
ところが、シュレーディンガー方程式やトンネル効果におけるように、ミクロな素粒子などを扱う量子力学、素粒子物理学、宇宙物理学では、虚数が必要となります。
更に、タキオンという粒子は、光速よりも早く、質量が虚数というものですが、未発見です。
要は、ヒトが五感で感じることができない茶室の虚像を、無意識のうちに人は感じている可能性は否定できません。
茶の湯において、茶室の虚像の存在を示唆する事例として考えられるものに、四方捌きがあります。
陰陽師、ないしは、道士である亭主による四方捌きは、東南西北、春夏秋冬を清めています。
清める実体行為とは実は、虚数の表現行列Jに関して、時計回りに繰っている四方捌きで一回繰る行為が-Jを茶室の虚像に掛けることと相当していると考えられるのです。
-Jを掛けるとは、ガウス平面において時計回りに90°回転させることなので、90°回転を4回することで方角を順次入れ替えて東南西北を辿り、元の位置に戻ってきます。
この際、茶入を清めるために袱紗に「気」を集めているだけではなく、茶室の虚像の回転で立ち興った清風によって茶室自体が方位と季節と共に清められるのです。
本勝手であれば、I(Re) → I(Im) → III(Im) → V(Im) → VII(Im) → I(Im) → I(Re)。
逆勝手であれば、II(Re) → II(Im) → III(Im) → IV(Im) → VI(Im) → II(Im) → II(Re)。
裏千家流であれば、草の四方捌きにおいて、初めの空送りは実像から虚像への創出・転換を実施しているのかもしれません。
同様に、行や真の四方捌きは、袱紗の裏と表を入れ替えることで実像から虚像への創出・転換を実施しているのかもしれません。
そして、袱紗捌きで畳んだり、折り込んだりすること、ないしは、腰に袱紗を着けることは虚像から実像へ復帰・転換を実施しているのかもしれません。
まさに、陰陽師、ないしは、道士である亭主がなせる技です。
利休百首に、「一点前点るうちには善悪と 有無の心のわかちをも知る」というものがありますが、集中して点前に臨めば、無心になって鬼神をも動かし得るのではないでしょうか。
能楽においては、能舞台も四畳半茶室と同様に正方形をなしており、ユークリッド平面とガウス平面、すなわち、実像と虚像が存在することが、茶室と同様に示唆されます。
能舞台の移動が諸国行脚を表現したり、川や山が現れたり、そして、地獄や辻道という異界が登場したり、世阿弥の夢幻能のように現実ではない世界が現出したりします。
これは、何かしらとらえどころのないものが能舞台に潜んでいるように感じられます。
その実体が、ガウス平面で示される能舞台の虚像とも考えられます。
新型コロナウイルスの影響でZoomのようなWeb会議システムを用いて、オンラインで茶会を催すことがあります。
その際、モニターやディスプレイに示される茶室は、果たして実像なのでしょうか、それとも、虚像なのでしょうか。
そこには自身が入り込むことができないので、実像ではないと言えます。
そうであれば、虚像となりますが、モニターやディスプレイで移された茶室には、もはや、茶室のxy平面とは異なる、方角性のない数インチの平面に帰着されます。
写真やビデオは、光子を線型変換して写したものととらえることはできます。
並進移動した後に、何かしらの表現行列をかけて構成されたものと考えられますが、今後の研究課題となります。
さて、ユークリッド空間やガウス平面とは異なる「研鑽」が積まれる空間において、稽古や精進を積み重ねれば、その都度、上達を促す表現行列によって人は高みに上がり、逆に、怠れば、常時、劣化を促す表現行列、ないしは、上達を促す表現行列の逆行列によって人の力量は下降していくとも考えられます。
そして、稽古を辞めてしまえば、O行列が掛けられ、無に帰してしまいます。
誠に、茶の湯代数幾何学は奥深いものです。
結論としては、本勝手四畳半茶室に対称や回転の線型変換をすると、本勝手と逆勝手において像IからVIIIの8つの像に写され、幾何学模様のように群となります。更に、畳上のユークリッド平面と数学的に同型であるガウス平面を導入すると、実像と虚像の16個の像となります。不動である実像はヒトに認識されるのに対して、虚像は通常、認識されません。しかし、道士や陰陽師である亭主が四方捌きの際に時計回りに一回繰ると、虚像平面が時計回りに90°回転して4回目に元に戻ります。これにより、東南西北と春夏秋冬である時空間が清められ、袱紗にも「気」が集積します。このように、陰陽五行説に基盤を置く茶の湯には、人知には理解しがたい側面もありますが、それを巧みに御していく亭主は日々の研鑽が必要となります。その結果、客も茶室において特別な体験を得ることができると考えられます。