大阪の茶室での文学鑑賞、『外科室』

『外科室』、泉鏡花

 

(略)

「そんなに強(し)いるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。痲酔剤(ねむりぐすり)は譫言(うわごと)を謂(い)うと申すから、それがこわくってなりません。どうぞもう、眠らずにお療治ができないようなら、もうもう快(なお)らんでもいい、よしてください」

聞くがごとくんば、伯爵夫人は、意中の秘密を夢現(ゆめうつつ)の間に人に呟(つぶや)かんことを恐れて、死をもてこれを守ろうとするなり。

(中略)

三秒(セコンド)にして渠が手術は、ハヤその佳境に進みつつ、メス骨に達すと覚しきとき、 「あ」と深刻なる声を絞りて、二十日以来寝返りさえもえせずと聞きたる、夫人は俄然(がぜん)器械のごとく、その半身を跳ね起きつつ、刀(とう)取れる高峰が右手(めて)の腕(かいな)に両手をしかと取り縋(すが)りぬ。

「痛みますか」

「いいえ、あなただから、あなただから」

かく言い懸(か)けて伯爵夫人は、がっくりと仰向(あおむ)きつつ、凄冷(せいれい)極(きわ)まりなき最後の眼(まなこ)に、国手(こくしゅ)をじっと瞻(みまも)りて、

「でも、あなたは、あなたは、私(わたくし)を知りますまい!」

謂うとき晩(おそ)し、高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深く掻き切りぬ。医学士は真蒼(まっさお)になりて戦(おのの)きつつ、

「忘れません」

その声、その呼吸(いき)、その姿、その声、その呼吸、その姿。伯爵夫人はうれしげに、いとあどけなき微笑(えみ)を含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、脣(くちびる)の色変わりたり。

そのときの二人が状(さま)、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。

 

数うれば、はや九年前なり。高峰がそのころはまだ医科大学に学生なりしみぎりなりき。一日(あるひ)予は渠(かれ)とともに、小石川なる植物園に散策しつ。五月五日躑躅(つつじ)の花盛んなりし。渠とともに手を携え、芳草の間を出つ、入りつ、園内の公園なる池を繞(めぐ)りて、咲き揃(そろ)いたる藤(ふじ)を見つ。

歩を転じてかしこなる躑躅の丘に上らんとて、池に添いつつ歩めるとき、かなたより来たりたる、一群れの観客あり。

一個(ひとり)洋服の扮装(いでたち)にて煙突帽を戴(いただ)きたる蓄髯(ちくぜん)の漢(おとこ)前衛して、中に三人の婦人を囲みて、後(あと)よりもまた同一(おなじ)様なる漢来れり。渠らは貴族の御者なりし。中なる三人の婦人等(おんなたち)は、一様に深張りの涼傘(ひがさ)を指し翳(かざ)して、裾捌(すそさば)きの音いとさやかに、するすると練り来たれる、と行き違いざま高峰は、思わず後を見返りたり。

(後略)

 

従是(これより)、茶といふ薬をして陶酔せしめむと欲(ほっ)す。

而(しか)して、茶人の刀たる茶杓を以(もっ)て、心の内なる塵を取り除かむ。

まさに、茶室は外科室なり。

以下の趣向にて、茶を楽しめり。

亭主は自ずから放出されたるエンドルフィンてふ内因性脳内麻薬にて酔ゐたり。

 

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寄付待合

軸 新緑清水寺 草汀筆

テクスト 岩波文庫 『外科室』 泉鏡花

 

本席

軸 華 不笑不語紅留人 盛永宗興老師筆

花 紫丁華

花生 旅枕花入 楽斎造

敷板 黄金壇薄板

香合 籠地螺鈿香合 二代瓢阿・池田巌合作

釜 万代屋釜 敬典造

風炉先 更紗(バティック) 紺々堂製

棚 玄々斎好 更好棚 可映造

水指 藤に菖蒲 薩摩焼 寿官造

茶碗 李朝 青井戸

古袱紗 撫子紋

茶入 瀬戸 飛鳥川写 三代祥平造

仕覆 石畳金襴

薄器 時代螺鈿牡丹中次

茶杓 大長刀 鈴木宗保宗匠造

蓋置 紺地蝶蓋置 清閑寺窯造

建水 唐銅フエゴ 淨雲造

水次 腰黒薬缶 古宇小品堂製

主菓子 岩根つつじ 菊屋製(大阪)

菓子器 青楓蒔絵菓子椀

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茶碗 木ノ葉文茶碗 鈍阿造

替  鉄仙図茶碗 宋絢造

薄器 時代螺鈿牡丹中次

茶杓 真意 宗巨造 共箱蓋裏「此中有真意 欲弁已忘言」

蓋置 紺地蝶蓋置 清閑寺窯造

干菓子 わり氷 村上製(金沢)

干菓子器 四方盆 煌又造

 

ああ、真の美の人を動かすこと、かくのごとし。

焉(いづく)んぞ、茶の湯を通じて美を愛でむや。

 

 

さて、茶の湯では任意の和歌や物語を趣向とすることが多いですが、その根底には叙情的なものが存在していて、それを通じて心を伝えているからであると考えられます。

藤原定家が恋の歌を重んじているのは、そのような理由からではないでしょうか。

源氏物語や伊勢物語の場面が趣向や題材としてよく取り上げられます。

しかし、茶席では世俗的なものは避けるべきものではあります。

実際、茶席においては、天文24年(1555年)10月2日に武野紹鴎によって初めて「あまのはらふりさけみれば」という叙景的な和歌の小倉色紙が掛けられました。

これ以降、和歌の古筆が床に掛けられるようになりました。

ところが、歌銘に見受けられるように歌掛物以外においては徐々に叙情的なものも茶の湯の題材に取り上げられてくるようになってきました。

そして、千家流では利休追善茶会でのみ恋の歌掛物が掛けられ、それ以外の茶会では掛けられることはありませんでした(註、「恋歌と茶の湯」、岩井茂樹著、『淡交』、2008年6月53 P.84-P.88)。

佗茶では、叙情的なものは茶席では避ける方がよいということが推し量られます。

とはいうものの、『外科室』の最期の場面は、慧可断臂や屈原入水に相通じるものがあるように感じられます。

従って、もはや世俗から遙かに隔絶し、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなっている状態が創出されているのです。

とても観念的で、耽美的です。

それから、「近頃河原の達引(ちかごろかわらのたてひき)~四条河原(しじょうがわら)」という歌舞伎の演目に、飛鳥川の茶入が登場するのはとても興味深いです。

「飛鳥川淵は瀬になる世なりとも思ひそめてむ人は忘れじ」(『古今和歌集』、巻14・恋歌4・687、よみ人知らず)。

 

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