茶の湯における分子生物学および進化論的な考察
キーフレーズ「〈自然〉によって十分に習練をうけ、そして生物は、よく適合した生活条件のもとにおかれるようになる。(中略)〈自然〉のもとでは、構造あるいは体質のごく軽微な差異でも、生活のための闘争における精密につりあった尺度を変化させ、それによって保存されることができる。」
チャールズ・ダーウィンの著した『種の起源』の一節です。
進化論という学説が不動の地位を獲得したのです。
さて、茶の湯は、端的には、カフェインという化学物質を含むお茶という嗜好品を楽しむ行為です。
そのため、茶の湯は飲食の一種と言えますが、それだけに止まらず、精神的、社交的、娯楽的な面も備えています。
実際、いわば中毒を惹起する化学物質の含まれている嗜好品の中でも、それを摂取する行為に精神性を備えたものはお茶だけであると考えられます。
茶の湯は、独特な発展を遂げて、現在でもなお楽しまれているのです。
茶の湯の上位概念である飲食という行為から下位に対して、詳細に生物学的な分類に則って分けることができます。
つまり、飲食物界・嗜好品門・喫飲綱・喫茶目・抹茶科・佗茶属に属する茶の湯の発展は、進化論的な説明の可能であることが示唆されます。
・飲食物界
基礎代謝維持門(アミノ酸・タンパク質・炭水化物・脂質・ショ糖・ミネラル・水)、甘味類門(ショ糖)、嗜好品門(カフェイン・エタノール・炭酸・ミネラルウォーター・ニコチン・カンナビノイド)(括弧内は摂取の対象となる物質)。
・嗜好品門
喫飲綱、喫煙綱、摂大麻綱。
・喫飲綱
喫茶目、喝咖啡目、飲酒目、飲炭酸飲料目、飲水目。
・喫茶目
抹茶科、煎茶科。
・抹茶科
茶礼茶属、書院茶属、佗茶属、大名茶属。
・佗茶属
表千家流種、裏千家流種、武者小路千家流種。
生命を維持するためには、栄養となる食物を摂取しなければいけません。
そして、富の蓄積により生活に余裕が出ると、食欲とは異なる理由で、必ずしも基礎代謝の維持に不可欠ではない飲食行為がなされるようになりました。
つまり、嗜好品やデザートの摂取は、その摂取が楽しみとなっているのです。
従って、進化的に、嗜好品やデザートの摂取は、基礎代謝の維持のための単なる食事よりも後に現れたものと言えます。
やがて、嗜好品であるお茶において、単なる摂取だけではなく、精神性を伴う茶の湯、すわなち、茶道が登場してきます。
喫茶目に属する茶の湯には、規定されたゲノムDNAが存在します。
抹茶科・佗茶属において、歴代家元の間で複製されて継承されてきた茶の湯を具現化する設計図となるものが茶の湯ゲノムDNAと言えます。
生物学において、セントラルドグマとは、生物の遺伝情報が読み解かれる規則のことです。
DNAが転写されてメッセンジャーRNAとなり、これが翻訳されたタンパク質が生体内で特異な作用を担い、生命活動をおこなっています。
ところが、最近、セントラルドグマとは別の機構で、生命活動が制御されていることが明らかになりつつあります。
ゲノムに依存しないエピジェネティクスという現象が、生物において重要であることが段々理解されてきました。
ゲノム解読終了の結果、予想に反して、ヒトの遺伝子の数は約 2万2000個と、マウスの遺伝子数とあまり変わらないことが分かりました。
その代わり、遺伝子から転写されたメッセンジャーRNAがタンパク質をコードしているのとは違って、タンパク質をコードしないRNAとして転写されるノンコーディングRNAの数が、生物の中でヒトが最多でした。
つまり、ノンコーディングRNAがメッセンジャーRNAからタンパク質に翻訳される段階などをエピジェネティックに制御しているのです。
具体的には、ヒストン修飾とDNAメチル化によって、DNAの転写が制御されています。
DNAに巻き付いているヒストンの修飾具合によって、転写因子のDNAへの接近が規定され、DNAの転写がコントロールされています。
メチル化されたDNAは不活性化状態として転写されず、他方、脱メチル化酵素も存在してメチルフリーDNAの転写を可能とします。
その制御に、ヒストン脱アセチル化酵素(histone deacetylase: HDAC)やヒストンアセチル化酵素(histone acetyltransferase: HAT)のような、エピジェネティックな作用を担う酵素の発現や機能をコントロールする機構においてノンコーディングRNAが関与しているのです。
自然科学が発展することで、ノンコーディングRNAに依存した本来の生命活動とは別に人(ヒト)が自分の意志で科学的な手法でDNAを制御することが可能となりました。
ゲノム編集とは、人為的に細胞内の核にあるゲノム内の遺伝子を不活化させたり、新たに遺伝子を挿入したりすることです。
ZFN、TALEN、CRISPR-Cas9という生化学的な技術を用いることで、遺伝子のノックアウトやノックインを行うことができます。
ところで、生命の進化に関しては、さまざまな学説があります。
ダーウィンの進化論は、生殖細胞の遺伝子に起こった変異が次の世代に伝わり、適者生存の結果、環境に適応したものが自然淘汰されて生き残るというものです。
ラマルクの進化論は、用不用説のように獲得形質は遺伝されるというものですが、長年、批判されてきました。
しかし、DNAメチル化のようなエピジェネティックな変化が次世代に継承されることが分かり、獲得形質が遺伝されることが証明されました。
進化の痕跡は、注意深く観察することで見付けることができます。
例えば、ヒトでは盲腸、尾骨(尾骶骨)という退化した組織が存在しています。
そして、茶の湯にも進化の過程をうかがわせる痕跡があるはずと考えられます。
実際、点前は道具や所作などを省略する方向性にありますが、かつての点前や道具の名残が見受けられます。
茶の湯の歴史を簡単に追うと、茶礼茶属から書院茶属が生まれ、それから佗茶属や大名茶属が生まれました。
この変化は、偶発の結果とすれば突然変異と見なすことができ、意図的な作為の結果とすればゲノム編集と見なすことができます。
後者であれば、能阿弥、村田珠光、武野紹鴎、千利休らが個々に時宜にかなったゲノム編集を画策したと考えられます。
カンブリア紀には、多様な生物種が一気に登場し、カンブリア爆発と呼ばれています。
進化の試行錯誤がなされたと考えられます。
同様に、桃山期には、進取の時代背景により、茶の湯ではさまざまな新しいことが試みられました。
待庵や如庵という数々の茶室、楽焼(今焼)や織部焼という新たな焼物などが挙げられます。
茶の湯におけるカンブリア紀と言えます。
ヘーゲルの弁証法によって進化論を説明すると、下等なものから高等なものへと連続的に発展してきたと考えられます。
社会進化論とは、世の中が一定方向に発展していくというものです。
これは社会を生物学によって解釈しているため、同様な発想により、茶の湯が含まれる飲食というものを生物学的な進化論で俯瞰しても荒唐無稽ではないことを示唆しています。
更に、民俗学者で文化人類学者であるレヴィ=ストロースの提唱する進化論では、進化は、ブリコラージュ(Bricolage)によってなされるとしています。
ブリコラージュは、「寄せ集めて自分で作る」、「ものを自分で修繕する」ということです。
つまり、進化は、まったく無の状態から始まるのではなく、既存のものを用いて行われるのです。
共生説は、いわば、生体におけるブリコラージュであると考えられます。
動物細胞内に存在するミトコンドリアはエネルギーとなるATPという物質を呼吸で産生し、植物細胞内に存在する葉緑体は光合成で糖類を産生しており、宿主のゲノムとは異なるゲノムDNAを持っています。ミトコンドリアや葉緑体というオルガネラは、元々は別の細菌が宿主となる細菌内に取り込まれたもので、共に進化して多細胞生物の細胞内に留まっているものです。
更に、ビフィズス菌などの腸内フローラのように、細胞内ではなく、別々の個体として、宿主の生命活動を助けるものもいます。
そして、マメ科植物の根には、根粒菌がいて大気の窒素の窒素固定をしています。
独自の発展を遂げている茶の湯にも、このようなブリコラージュに伴う進化を伴っている可能性があるかもしれません。
思想に関する共生・ブリコラージュには、陰陽五行説、禅宗が挙げられます。
コンテンツに関する共生・ブリコラージュには、香道、懐石、立花が挙げられます。
物品に関する共生・ブリコラージュには、高麗物、南蛮物、楽焼(今焼)、織部焼、見立てが挙げられます。
行為に関する共生・ブリコラージュには、濃茶の回し飲み、薄茶が挙げられます。
それから、現在に存在する茶の湯の流派で、点前や作法などに違いが見られます。
これも生物学的な見地から説明することができます。
裏千家流や表千家流という種間で、袱紗捌き、足運び、しつらえなどが異なっています。
これは、茶の湯ゲノムに潜むノンコーディングRNAによってエピジェネティックな機構による獲得形質の差異として、エピジェネティックに各流派の作法という表現型(phenotype、フェノタイプ)が異なってきているのです。
もしくは、家元が継承される際に、細胞の生殖細胞に生じた変異が次世代に伝わるように伝えられているのです。
同じ流派という種に属しているにもかかわらず、茶人は個々に個性を持っています。
これは、茶の湯ゲノムにおける一塩基多型(SNPs)によるものと認識することができます。
DNA上の3つ組(コドン)の塩基が1つのアミノ酸を規定していますが、その塩基の1つが別の塩基に変異することで、本来のアミノ酸とは異なるアミノ酸が規定される可能性が生じます。
その結果、一塩基多型によって翻訳されるタンパク質も、本来の構造や作用とは異なってしまいます。
茶の湯では、手や好みが微妙に違うなどの表現型として現れるのです。
また、他者からの影響による変化は、翻訳後修飾と捉えることもできます。
裏千家7代最々斎竺叟と裏千家8代又玄斎一燈は、ともに表千家7代如心斎天然の実弟で、裏千家に養子に入っています。
つまり、作法や点前というエピジェネティック的に異なる表現型をマスターし直したことになります。
これは、極論すると、Oct3/4・Sox2・Klf4・c-Mycの4つの山中因子によって初期化されたiPS細胞が、改めて再分化することに類似しています。
つまり、エピジェネティックに固定された環境因子が初期化されて、茶の湯ゲノムに潜むノンコーディングRNAよって新たにエピジェネティックな制御を受け、別の表現型となったのです。
このように、茶の湯は進化を遂げて発展しており、カフェインによる中毒とは別の魅惑を備えた、極めて特異な飲食として多くの人達に親しまれているまでになっているのです。
しかし、茶の湯DNAには、本当の生物と違って自己複製能力を持っていないため、利己的な遺伝子が子孫を残すような戦略をとるのに対して、常に衰微や消滅の危機に晒されています。
従って、茶人が積極的に関わって茶の湯DNAが存続するように、そして、進化していくように、励んでいく必要があるのです。
結論としては、茶の湯は生物学的な進化に基づいてその発展が説明されます。元々は、カフェインを含む嗜好品でしたが、ブリコラージュという手法によって外部から陰陽五行説や香道などという新たな要素を獲得しました。更に、茶の湯DNAのゲノム編集によって茶礼茶・書院茶・佗茶・大名茶という飛躍性のある進展を遂げました。そして、茶の湯ゲノムに潜むノンコーディングRNAによるエピジェネティックな機構により、各流派間で点前や作法の違いが形成されました。同一流派内の茶人間の個性も一塩基多型に起因するものです。こうした精神性も備えた進化を経た茶の湯は、他の飲食とは明らかに差異のある独特なものとして広く愛好されています。