古曽部焼
遠州七窯の1つである古曽部焼は、遠州の死後に開窯されたものです。
そのため、遠州好みのものを焼いている窯として、後世、遠州七窯に加えられたと考えられます。
江戸時代末期から明治末まで、現在の大阪府高槻市で古曽部焼が焼かれました。
初代五十嵐新平は、この地の出身で、京に出て作陶を学んで戻ってきたて、寛政2-3年(1790-1791年)頃窯を開きました。
そして、「古曽部」の印を用いて日用雑器の他に、茶道具も造りました。
五代五十嵐信平が、健康上の理由で、窯を閉じました。
三島手、絵唐津などの写しが造られました。
それから、大正期に、磊三古曽部(復興古曽部)として、五代五十嵐信平も参加して地元も有志が何度か作陶が実施されました。
しかし、本格的に再興することはなく、結局、窯は途絶えてしまうことになりました。
その後、初代寒川栖豊の末子である寒川義崇が、昭和54年(1979年)に古曽部焼義崇窯を開いて、古曽部焼を復興しました。
その作品には、表千家や裏千家の家元が箱書きするほどです。
古曽部印のある茶碗を骨董店で見掛けることがあります。
これを見て、往時を偲ぶのもよいかもしれません。