小堀遠州
小堀遠州は、名を政一と称し、天正7年(1579年)に近江国坂田郡小堀村で小堀正次の長男として生まれ、元和5年(1647年)に亡くなりました。
慶長13年(1608年)に駿府城普請奉行になったことで、従五位下遠江守となり、遠州と呼ばれるようになります。
また、作事だけではなく、多くの作庭にも才能を発揮させました。
千利休、古田織部に続く茶の湯の第一人者として将軍家茶道指南となりました。
後水尾天皇を中心とする寛永文化サロンにも関わり、生涯に400回あまりの茶会を開きました。
現在まで続く遠州流(小堀遠州流)の祖となりました。
その茶風は、きれいさび、という言葉で説明されます。
王朝文化の美意識を取り入れ、道具の銘に、和歌である歌銘、古典から採った銘などを用いました。
また、中興名物の選定を行いました。
既に、大名物や名物は、入手困難となっていたので、自らの審美眼で新たな道具を見出したり、創り出したりしました。
その一環として、国焼きの指導も行い、それらの窯は遠州七窯と呼ばれています。
現在、大名物、名物、中興名物という名品は、しかるべきところに在って手に入りません。
遠州が中興名物を見出したように、新たな名品を見出す気概が求められているのかもしれません。