古瀬戸の系譜の考察

「小壷を焼ことは元祖藤四郎をもつて鼻祖とする。藤四郎本名加藤四郎左衛門といふ。藤四郎は上下をはぶきて呼たるなるべし。後堀河帝貞応二年、永平寺の開山道元禅師に随て入唐し、唐土に在る事五年、陶器の法を伝得て、安貞元年八月帰朝す。唐土の土と薬と携帰りて、初て尾州瓶子窯にて焼たるを唐物と称す。倭土和薬にてやきたるを古瀬戸といふ。」と松平不昧の著した『古今名物類聚』に書かれています。

 

猿投窯は、古墳時代に須恵器を焼き、奈良時代に河内の陶邑窯と並び、平安時代前期に灰釉陶を完成させました。

しかし、12世紀には衰えて、中世の常滑窯、渥美窯、瀬戸窯に分派しました。

 

古瀬戸(様式)は、平安時代末から室町時代中期まで現在の尾張地方の瀬戸市周辺で生産された陶器類やその様式になります。

加藤四郎左衛門景正(1168?-1249?)の入唐以前に、考古学的に六古窯として焼かれていたようです。

 

瀬戸天目は、室町時代に全盛を迎え、釉は灰釉に鬼板と呼ばれる鉄の天然原料を加えたものです。

 

窯分け・手分けとは、小堀遠州、松平不昧を経て確立された茶入の分類法のことです。

 

古瀬戸は、加藤四郎左衛門景正が日本の土と釉薬で焼いたと伝えられる茶入を称しています。

口兀手(くちはげで)、掘出手があります。

 

春慶(しゅんけい)は、加藤四郎左衛門景正が剃髪して春慶の法名を用いるようになってからの作になります。

朝日手があります。

 

真中古(まちゅうこ)は、二代藤四郎基通の作と伝えられる茶入を称しています。

野田手、橋姫手、思河手、大瓶手(おおかめで)、大覚寺手、面取手、小川手、藤四郎手、柳藤四郎手、糸目藤四郎手、虫咀藤四郎手、花藤四郎があります。

 

藤四郎春慶(とうしろうしゅんけい)は、二代藤四郎基通の隠居後の作になります。

雪柳手、塞手(こしじで)、〆切手があります。

 

金華山(きんかざん)は、三代藤四郎景国の作になります。

飛鳥川手、玉柏手、瀧浪手、生海鼠手(なまこで)、大津手、広沢手、真如堂手、盤余野手(いわれので)、二見手、藤浪手、天目手があります。

 

破風窯(はふがま)は、四代藤四郎政連の作になります。

翁手、凡手、口広手、渋紙手、皆の川手、音羽手、正木手、橋立手、玉川手、米市手、市場手があります。

 

後窯(のちがま)は、四代藤四郎より後の瀬戸作になります。

利休窯、織部窯、正意、万右衛門、新兵衛、宗伯、吉兵衛、茂右衛門、源十郎、鳴海窯、坊主手、山道手、茶臼屋、姉手、捻貫手、八橋手、伊勢手、江存、落穂手、追覆手があります。

 

新製染付磁器は、江戸時代中期以降衰えますが、加藤民吉らが有田の技術を導入して染付磁器を創始し、復活させます。

 

古瀬戸一重口水指を行之行台子で用います。

 

結論としては、瀬戸焼は、古墳時代に須恵器を焼いた猿投窯から始まり、江戸時代に一度衰えましたが、今日まで焼物の代名詞となるほど興隆しています。

加藤四郎の伝説は信憑性に欠きますが、茶入に於ける古瀬戸・春慶・真中古・藤四郎春慶・金華山・破風窯・後窯という窯分けも、手分けの編年も研究されています。

茶入の他に、瀬戸天目や古瀬戸一重口水指も使われ、和物として瀬戸焼は茶の湯で重要な役割を持ちます。

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