淀の船着場での千利休の見送り
侘び茶を大成した千利休は、急速に力を持ったことで天下人である豊臣秀吉から警戒されます。
そして、大徳寺の山門に置かれた利休像に関して、天正19年(1591年)、秀吉の勘気に触れ、利休は京を追放されて堺に蟄居することになります。
そして、京から堺へ向かうために、淀の船着き場に行った際、数多くいる弟子の中で見送りに来たのは、古田織部と細川三斎の2人だけでした。
その他の者は秀吉の怒りを恐れて見送りには来ませんでした。
秀吉は、詫びを言わずに堺に行ったことを知り、利休像を一条戻橋のたもとで磔にします。
そして、利休を京に呼び戻して切腹を命じます。
三斎の家老である松井佐渡守康之へ宛てた利休の手紙が残されています。
富田左近将監知信、及び、柘植左京亮により、堺の蟄居を言い渡されました。
羽与様とは、羽柴与一郎という名を持つ細川三斎のことです。
織部様とは、古田織部のことです。
態々御飛脚 過分至極候
富左殿 柘左殿御両所 為御使 堺迄可罷下之旨
御諚候条 俄昨夜罷下候 仍淀迄 羽与様 織部様
御送候て 舟本にて見付申 驚存候
忝由 頼存候 恐惶謹言
二月十四日 利休
松佐様
些細なことのすれ違いと思いますが、そのことで利休は死ぬことになってしまいました。
自分の美学を貫き通すことの潔さに感服します。