円能斎
円能斎(圓能斎)鉄中は、裏千家13代家元で、明治5年(1872年)5月21日に、裏千家12代家元又玅斎の長男として京都で生まれ、大正13年(1924年)に亡くなりました。
折しも、明治維新により、加賀藩と松山藩からの扶持がなくなり、経済的にとても厳しい時期でした。
18歳で、裏千家13代家元を継承しました。
衰退気味であった茶の湯を再興するために尽力しました。
つまり、家元継承後直ぐに、麻布我善坊町に居を構えて、日本の中心として発展する東京で茶の湯の普及に努め、22歳の春に京都に戻りました。
機関誌や教本を出版したり、茶道夏期講習会などの講習会を開催したりして、裏千家流茶道の普及と統一を図りました。
また、女学校に茶道を取り入れてもらいました。
この際、円能斎の考案した盆略手前が学校茶道の進展にとても貢献しました。
北白川宮能仁親王より、能仁親王の1字を取って、「円満にその能を発揮せよ」という意味で円能斎の号を賜わりました。
また、小松宮彰仁親王より、「鉄中の鏘々(そうそう)たる者たれ」という意味で鉄中の号を賜わりました。
更に、大円之真と大円之草という奥伝の点前も考案しました。
しかし、円能斎好みの大円盆では少し大きくてお盆を膝前に置きにくい観があるので、淡々斎好みの大円盆が用いられることが多いです。
南方録と現代では、台子の据える位置が異なっていることが原因のようです。
その背景には、男子よりお小柄な女子でも台子点前がし易いようにという配慮で、台子が少し手前に据えられるようになったらしいです。
東京に居を構えるなど、円能斎はとても苦労をされたことが窺えます。
そのため、今日の隆興があると考えられます。