珠光、紹鴎、利休という大茶人の茶杓師
大茶人の影には、それを支える職人がいるものですが、中でも、下削りをした茶杓師は重要な存在です。
その裏方とも言える人達に脚光を浴びていただきましょう。
珠徳(しゅとく)は、生年と没年が不明である茶杓師で、村田珠光のもとで活躍しました。
象牙の茶杓の形として、珠徳形という末端の切止が三味線のバチ状のなったものにその名を残しています。
素材は象牙から木や竹となり、竹の節なしの茶杓を削りました。
そして、竹製の茶杓の先駆けとなりました。
南都窓栖(そうせい)、及び、羽淵宗印(はねぶちそういん)は、武野紹鴎のもとで活躍した茶杓師です。
羽淵宗印は、元節の茶杓を削りました。
慶主座(けいしゅざ)は、多忙な千利休のもとで下削りをした茶杓師です。
『南方録』を著した南坊宗啓と同一人物とも言われますが定かではありません。
中節で折り撓めの茶杓を削りました。
それから、東京国立博物館に、元亀1年(1570)に19歳で討ち死にした森傳兵衛宛ての千利休の書簡があります。
「茶杓、貴所之御用と申候間、
此者に壱つ進し候。我等取
ておき申候。又、此きんら
んの袋を、慶様へ被参て可
被下候。かしく
森傳公
まいる机下 宗易」
森傳兵衛が利休に茶杓を依頼したことが分かりますが、書簡にある慶様とは慶主座のことです。
金襴の袋を慶主座に渡すように書かれてあります。
また、甫竹(ほちく)は、利休と古田織部のもとで下削りをした茶杓師で、通称は重右衛門です。
筒には甫竹の丸印が押してあるようです。
珠光、紹鴎、利休のもとで下削りをした茶杓師は、茶の湯を変革させた人達とも言えます。
この人達の関わった茶杓を見ると、その変遷が分かるのではないでしょうか。