歴史出来事の背後存在としての考察

「池田筑後守降参を致し、人質進上の間、御本陣芥川の城へ御人数打納れられ、五畿内隣国皆以て御下知に任せらる。松永弾正は我朝無双のつくもかみ進上申され、今井宗久是又隠れなき名物松嶋ノ壺、并に紹鴎茄子進献。」『信長公記』

 

佐々木道誉は、婆娑羅大名で、唐物を用いた闘茶を行いました。

 

堺の茶人としては、武野紹鴎、千利休、今井宗久、津田宗及、山上宗二が有名です。

 

織田信長は、御茶湯御政道を実施して、茶の湯を政治的に利用しました。

つまり、名物を家臣への恩賞として与え、また、茶会を開く許可を与えたのです。

茶入が一国と同価値と、資産価値が適正価格以上に高騰する投機現象を起こしているバブルとも見ることができます。

そして、名物狩りを行いました。

強制買い上げ、強制差し出し、献上、没収などにより、名物を入手したのです。

その茶堂は、千利休、津田宗及、山上宗二らが務めました。

 

豊臣秀吉の茶堂は、千利休、津田宗及、今井宗久、山上宗二らが務めました。

北野大茶会などを行いました。

 

徳川幕府の茶の湯指南は、古田織部、小堀遠州、片桐石州が務めました。

 

しかし、千家3代の宗旦は、自身は権力に翻弄させることを嫌い、どこにも出仕しませんでしたが、息子達には経済的事由で出仕させました。

 

家元制の確立が元禄年間(1688-1704年)以降、経済発展により都市文化が発達して茶の湯人口が増えたことで急速に進みました。

増えた門人の稽古のために七事式を18世紀中頃に定めましたが、大衆化が起こったことになります。

 

山田宗徧は、宗徧流家元で、忠臣蔵で重要な人物です。

大高源五が上方に帰る前の稽古を願うと14日が吉良の茶会なので15日に稽古をすることになったのです。

結果的に、吉良上野介の茶会の日を教えたことになります。

そして、討ち入りが、元禄15年12月14日(1703年1月30日)に決行されました。

それから、この時期に山田宗徧に竹籠花生に椿を生けているので、炉でも竹花籠を使うことに問題はないことになります。

 

明治維新により、庇護者の大名の没落と古いものを軽視する風潮により訪れた茶の湯存亡の危機を乗り越えはしました。

 

結論としては、茶の湯が武家に嗜まれると政治的な関わりが生じました。

佐々木道誉は闘茶をし、足利義政は能阿弥の定めた書院台子飾りで銀閣にて茶会を開きました。

織田信長は御茶湯御政道を行い、古田織部や小堀遠州らの大名茶人も多数存在し、千利休は織田信長や豊臣秀吉の茶堂として仕えました。

徳川幕府では政治色が薄れて表舞台から降りましたが、茶の湯人口の増加で確立した家元制で存在を主張することになります。

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