曙棗

曙棗は、朱塗りの利休好み香次棗の形で、甲に黒絵で一羽の立鶴が、胴に松と亀が蓬莱文様とともに描かれたおめでたい意匠の棗です。

 

本歌の箱蓋表には「曙棗」、箱蓋裏には、「就玄室点茶始ニ好焉 廿八ノ内 癸丑春」と書かれていて、嘉永6年(1853年)、玄室の8歳のときの稽古始めに際して好んだことが分かります。

 

玄々斎は22歳のときに、認得斎の長女萬地と結婚しますが、跡継ぎのないまま、弘化2年(1845年)に萬地は亡くなってしまいます。
その後、認得斎の次女で未亡人となっていた照と再婚し、弘化3年(1846年)に長男千代松、嘉永3年(1850年)に長女猶鹿子が生まれます。
玄室とは、この千代松のことです。
8歳の子に玄室の名が与えられていることからも、後継者としての大きな期待が感じられます。
そして、曙棗というおめでたい意匠の棗を好んだのでした。

 

表面と盆付きは朱塗りで、内側は黒塗りで、蓋裏には玄々斎の在判があり、8代宗哲の作で、28個造られました。
箱はすべて杉箱でした。
九条尚忠に献上されたものの箱蓋裏だけには、「因慶事好之廿八ノ内 癸丑春」と書かれており、更に玄々斎の添え状が残されています。

 

これが大変好評で、8代宗哲に写しを造らせましたが、盆付きを黒塗りとして区別がつくようになっています。
箱は桐箱となり、玄々斎の書付はありません。

 

曙棗は、おめでたい趣向の際によく使われますが、その謂われを知ると感慨深いものがあります。

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