客振りの実存主義的な考察

「看脚下」という禅語がありますが、宋代、暗闇で灯火が消えた時に、五祖法演禅師の対処法の問いに対して、克勤が看脚下と答えました。

 

実存主義とは、存在は本質に先立つということです。
サルトルが1938年に書いた『嘔吐』では、主人公のロカンタンは、足元の木などを見て嘔吐感を覚えます。
嘔吐感は、対自である自分が即自である事物の存在を意識し、その事物の実在が自分の意識内の領域に入り込んできた時の信号のようなものです。

 

茶の湯の客振りを考えてみます。
茶会や茶事の席入りの際に床の拝見で、セルロース(紙)と黒炭(墨)と繊維から成る掛け物を見ますが、趣向などを象徴的に示す掛け物には、禅僧や茶人の墨蹟で禅語などが書かれています。
客はこれを見て、意味や趣向などを自分自身で、場合によっては亭主の力を借りて理解していきます。
つまり、 即自である事物の存在を意識して思考的反応を示すのは、実存主義のようです。
しかし、亭主の立場は正反対となり、趣向などを本質的に選定する決定権を持ち、道具立てに反映させます。
更に、客は茶席の進行に伴い、菓子器や拝見された道具などを次に送ったり、茶を飲んで茶碗を返したりします。
つまり、即自である事物の存在を意識して茶席進行の構成要素になっているのは、実存主義のようです。
貴人の供として茶室の控えの間に居る場合、特に居なくとも茶席の進行には影響はありません。
これは、本来、存在には本質がないことを如実に表しています。
従って、客が茶会や茶事に参加することは、自己という存在を本質化させることに他なりません。
これが、公案を解く禅宗での仏道修行と、茶の湯が同一視される所以の一つなのかもしれません。

 

大寄せの茶会では、席入りすると、大勢という理由で床の拝見は後にするように言われたりすることがあります。
また、茶席の進行の途中でも、都合で茶室に押し込められたりすることがあります。
ベルトコンベア式で、茶席の終了後、訳の分からないことがよくあります。
まさに、没個性化です。

 

「Modern Times」はチャーリー・チャップリンが1963年に監督・制作・脚本・作曲をしたアメリカの喜劇映画です。
資本主義社会では、ベルトコンベア式に大量生産が行われていますが、人間の尊厳性は喪失して、あたかも歯車のようであることを風刺しています。
巨大歯車に巻き込まれる場面は、人間が製品のように物質化・無機化していることを暗示しています。

 

現代社会は世界的に宗教が無力化していて統制力を失っています。
禅と深い関わりのある茶の湯が、客には存在するだけで本質のないものになる危険性を孕んでいます。
これでは、単なる喫茶である諸外国のものとあまり変わらないものになるということです。

 

結論としては、茶の湯の客振りは、存在は本質に先立つという実存主義でよく説明されます。
即ち、趣向などを示す掛け物を意識的に読み解いたり、次に送ることや亭主に返すことなどの道具を介した意識的行動によって茶席進行の構成要素になったりして、自己や道具の存在を本質化させます。
昨今のベルトコンベア式の大寄せ茶会の興隆は、茶の湯の存続には仕方がないと言えるが、客の存在が希薄化しているようです。

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