和巾点をめぐる謎

和巾点とは、現在、裏千家にしかない点前ですが、その歴史は何か謎めいたものがあります。
俗説がいろいろとあるのです。

 

和巾点とは、裏千家11代玄々斎が、久しく途絶えていた禁裏献茶を復活させ、それに際し、これまた途絶えていた点前を復活させたものです。

 

玄々斎は、三河国奥殿藩4代藩主松平乗友の5 男として生を受けたため、加賀前田家、松山久松家以外にも、尾張徳川家、田安家などとも深い関係を築いていました。
天保10年(1839年)の利休250年忌には、関白鷹司政通、内大臣近衛忠煕、左大臣九条尚忠ら、大徳寺の大綱宗彦和尚を通じて交際した一流の公家たちが招かれています。

 

禁中への献茶・献上は、利休、宗旦、仙叟、一燈以来、途絶えていましたが、万延1年(1860年)に玄々斎は禁中への献茶の儀を願い出る口上書を内裏に提出しました。
そして、慶応1年(1865年)、中院家の仲介により、この儀が聞き届けられました。

 

慶応1年、孝明天皇に、龍之影という濃茶を木地中次に入れて、玄々斎作の白竹茶杓と共筒を献上しました。
この会でのお菓子は菱花平で、これを写した「菊泉香合」を楽家11代慶入に25個焼かせました。
箱書きには御所から拝領したお菓子を写した旨が書かれています。

 

そして、慶応2年1月10日にも孝明天皇に献茶しました。
拝領した銀欄金襴(註1)の裂地を使って、1月19日、抛筌斎でその披露の茶会を行い、和巾点を再興しました。

 

「利休大居士の古書ニヨリ、和巾点復興
右書密巻箱ニ入レ床脇棚ニ荘ル
(中略)
茶入 菊大棗 袋拝領
敷和巾 同御製
利休居士在判 当庵伝来
(中略)
献茶 濃茶 龍之影
当春 御所ニテ拝領 御菱花平
(中略)
茶杓 利休居士作 共筒在判
菓子 壽万頭」
と書かれたものが残されています。

 

この会記からも分かりますように、利休時代の和巾点は必ずしも中次ではありませんでしたが、玄々斎が献茶の際に中次を使い、そして、和巾点を復興しているので、今では、和巾点といえば中次を使うようになっているのです。
更に、裏千家14代淡々斎が利斎の桑中次を好まれ、金箔の上に花押を書き、箱に和巾点稽古用と箱書きしたのです。
それから、濃茶の龍之影の詰は竹田紹清です。

 

また、鷹司太閤政通候を介して裏千家が拝領した光格天皇勅作の節なしの太くて短い茶匙を、玄々斎は写して、銘 幾千代と名付けたものを幾つか作っています。
いつ、何のために作ったかは不明ですが、それが献茶の記念かは定かではありません。

 

しかしながら、どのような裂地を拝領したかは、今回、調べた範囲では分かりませんでした。
また、献茶がどういうものなのだったのかもよく分かりませんでした。
献茶を復活させた理由も確たるものはありません。

 

後は、皆様のお力をお借りしたいと思います。

 

(註1)

『玄々斎精中宗室居士 玄々斎精中宗室居士百年忌記念』、淡交社、昭和51年、p.98、「茶入は菊、桐の蒔絵をした大棗を銀襴金襴の袋に修めて長盆にのせてあった。」

 

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和巾点をめぐる謎” に対して 2 件のコメントがあります

  1. 匿名 より:

    私が四十年ほど前に師匠から伺いましたところでは、東福門院様の御袈裟を拝領した裂地で、御献茶に際して和巾に仕立てられたということで御座います。

  2. sehbi-an より:

    コメント、ありがとうございます。確かに、千宗旦のときの東福門院様からの下賜品が千家に伝えられたようです。
    >さん
    >
    >私が四十年ほど前に師匠から伺いましたところでは、東福門院様の御袈裟を拝領した裂地で、御献茶に際して和巾に仕立てられたということで御座います。
    >

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