名物裂の功利的利用法の考察

「漢桓帝延熹九年、大秦王安敦遣使自日南徼外來獻、漢世唯一通焉。」
『後漢書』西域列伝に、166年、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスが使者を遣わせたことが、記されています。
ローマ帝国が遙か遠国の中国と友好関係を保ちたかったということには理由がありました。
シルクロードを通じてもたらされた絹は非常に貴重だったのです。

 

絹は、蚕から得られる天然繊維で、フィブロインという蛋白質が主要成分で、アミノ酸としては、側鎖の小さいグリシン、アラニン、セリンが非常に多く含まれます。

 

養蚕の始まりとしては、BC2000年以前、野蚕が行われていましたが、BC2000-1600年、殷代、黄河と揚子江の中下流地域で家蚕の飼育が始められました。

 

名物裂は、宋・元・明代の中国製染織品で、鎌倉時代頃から室町時代・織豊時代・徳川時代にかけて渡来した高僧の袈裟や仏典の包み裂が起源です。
茶入の仕覆、茶器の袋、掛け軸の表装、道具風呂敷などに用いられました。

 

名物茶入の仕覆の表地は、使用により擦り切れたものが解き仕覆として伝えられる場合もありますが、金襴、緞子、間道(かんとう、漢道、漢東、広東)などの種類があります。
但し、これを真行草と言うのは誤りになります。
金襴が一番貴重で、代わりに緞子が用いられ、他方、シルクロード周辺国由来の間道も使われました。
このために緞子の方が金襴よりも多く残っていますが、これを緞子が上位と解するのも間違いになります。

 

名物茶入の仕覆の裏地として、海気(かいき、改機、甲斐絹)という、擦り合わせると絹鳴りのする、製法技術の途絶えた光沢性織物が使われ、玉虫海気、紋海気、縞海気の種類があります。
仕覆の裏地はあまり着目されませんが、名物茶入の仕覆の裏地の殆どが海気なのです。

 

功利主義・プラグマティズムの観点から言えば、貴重なので仕舞って保管しているより、実際に使用した方が実利的で、結局は利益的になります。
しかし、これは「用の美」とは若干意味合いが異なります。
「用の美」とは、柳宗悦の民芸運動で、使うことに忠実に作られたものに自ずと生ずる自然で暖かみのある美しさのことを意味します。
ところが、名物裂は、雑器と違って謂わば美の用で、使用と見られることを前提に作られているように思われます。

 

実際、近衛予楽院・北村謹次郎らは、自己の美的感覚で掛け軸の表装をしたのです。

 

経済的実力者の変遷をたどれば、大名・公家→政商・実業家→雇われ経営者・新興産業の経営者となります。
そして、没落大名の蔵内出所の売り立て品を益田鈍翁・原三渓・高橋掃庵・五島慶太などの実業家が買いました。
しかし、戦後、相続税の対策として、財団法人化して美術館に納まりましたが、他方、文化財保護法の功罪もあります。
株主のものである会社に雇われている経営者自身に財力はなく、新興産業の経営者に数寄者は少ないようです。
その結果、古美術品を後世に伝承するという潜在的な役目が、茶の湯から美術館に移行してしまっている観があります。

 

結論としては、宋・元・明代の名物裂は非常に貴重なものでしたが、昔の人は死蔵せずに茶入の仕覆などに功利主義的に実用しました。

現在、その気概や心意気は失われ、貴重なものは美術館などの所蔵です。

経済的面での継承の困難、文化財としての意識変容、数寄者の減少などがその理由となります。

実際に用いられる機会は殆どありませんが、硝子越しながら庶民が目に出来るようになったことは喜ばしいのかもしれません。

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