対象としての茶の実体論的な考察

「茶の湯とは只湯をわかし茶を点てゝ呑むばかりなる事としるべし」

 

これは、利休百首の一つで、茶の湯の真髄が喫茶であることを示唆しています。

 

茶は、8世紀の唐代に陸羽の著した『茶経』で紹介され、覚醒や解毒などの作用を示す薬のようなものとして中国で古くから嗜まれており、
カフェイン(覚醒)、テアニン(旨味)、ビタミンC(抗酸化)カテキン(渋味)などが含まれています。

 

茶の原産地は、中国の南部、雲南辺りで、中国各地、インド、スリランカ(セイロン)、日本などに伝搬されました。
禅僧である栄西が茶を実質的に日本に伝え、『喫茶養生記』を1221年に著しました。

 

市場商品として茶に関しては、大航海時代に起こった流通革命で茶が広く商われ、イギリス東インド会社(1600-1874年)が中国などの茶を欧州に輸出しました。
その中で、イギリスがアメリカ東海岸の植民地で茶に課税したことに現地が反発して、独立への契機となるボストン茶会事件が、1773年に起こりました。
茶が欧州に輸出されたことは、欧州で喫茶の習慣の広まったことが背景にありますが、それは簡単な作法によるものでした。
つまり、基督教の聖書の成立後から長い時が経ち、宗教と結び付く余地が少なく、嗜好品としての扱いだったのです。
また、中国の喫茶は古くからありますが、作法に関しては欧州のそれに近いか、それよりもやや複雑でした。
それは、儒教や道教の方が、仏教よりも浸透しているからかもしれません。

 

16世紀に、イエズス会宣教師ロドリゲスの著した『日本教会史』には、日本で茶の湯が盛んであることが記されています。
現在の日本に於いても、茶の湯による喫茶は諸外国のそれと異にしています。

 

日本での茶の湯の成立を紐解くと、茶の覚醒作用が禅の修行に有効(イスラム僧の珈琲に相当)であり、茶礼が禅の行事に適していました。
そして、足利義政の時代に生じた書院の茶から、「真」である台子の茶が生まれました。
更に、村田珠光が、「草」である小座敷の草庵茶を作り出し、仏道修行と茶の湯の修行が同じものであると見なし、精神的・観念的な要素が著しくなりました。

 

「小座敷の茶の湯は、第一仏法を以て修行得道することなり」ということが、『南方録』覚書に書かれており、仏の教えを心に止めて修行を続け、悟りを開いていくことであると千利休は考えていたようです。
そして、献茶は、神仏や御霊に崇敬の心を持って茶を捧げることです。

 

しかし、「神は死んだ」というニーチェ(1844-1900年)の言葉のように、現代社会は世界的に宗教が無力化しています。
禅と関わりのある茶の湯が、精神上、意義や拠り所の再構築を促されているのかもしれません。
そのニヒリズムの克服として、精神修養、禅の合理性の実践、礼法、社交、文化継承、遊興など、が考えられます。

 

結論としては、薬や嗜好品として昔から中国で茶が飲まれ、また、大航海時代以降、欧州などでも喫茶が広まりました。
他方、日本では単なる喫茶ではなく、禅との関与の中で、茶の湯修行や茶を客に供する行為が、仏道修行と同一視され、精神的・観念的要素が増しました。
だが、今の世界的な宗教の無力化などは、禅の影響のある茶の湯の精神論の再構築を誘起しており、精神修養・礼法・社交等が答えとなるのでしょうか。

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対象としての茶の実体論的な考察” に対して1件のコメントがあります。

  1. chelsea より:

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